デュルケムの生涯

デュルケムのプロフィール(白鳥 2011: 17-8)

 エミール・デュルケムは、ドイツとの国境に近いフランス東方のロレーヌ地方、ヴォージュ県のエピナルに1858年に生まれた。当時のフランスは1870-71年の普仏戦争に敗北し、ナポレオン3世による第二帝政から第三共和政へと移ったが、多感な時期に祖国の敗戦を見、しかも身近なアルザスおよびロレーヌの一部がドイツに割譲されたことは、彼にも大きな影響を与えた。

 彼の家は代々ユダヤ教のラビの家系であったが、彼自身は学問の道へ進み、敗戦後の祖国の再建に貢献することを目指すこととなる。1879年に高等師範学校に入学したが、当時の高等師範学校には、1年上級に、のちに著名な哲学者となるH. ベルクソンや、フランス社会主義の代表的な人物となるJ. ジョレス等、錚々たる同窓がいた。そして1882年に哲学のアグレガシオン(高等教育教授資格)を取得して同校を卒業し、リセ(高等学校)の哲学教師としてまずその経歴を開始した。リセの教師を務める間に、公教育省からの奨学金を得て1885年から86年にかけてドイツに留学する。

 そして、その成果として発表された論文に対する評価も受けて、弱冠29歳の1887年にボルドー大学に「社会科学および教育学」の講座を得て大学人としての歩みを開始する。1902年には、1879年から96年まで公教育省の初等教育局長を務めたあとソルボンヌの教授の任にあったF. ビュイッソンが下院議員選挙に出馬したその後任として、パリ大学の「教育の科学」の講師となり、4年後の1906年には教授に昇進した。1913年には、この講座名が「教育の科学および社会学」に変更されている。

 第一次世界大戦中の1917年に彼はこの世を去るが、その死においては、デュルケムと同じく高等師範学校で学び、アグレガシオンを得て、言語社会学者としての将来にデュルケム自身も大いに期待を寄せていた息子アンドレの、ブルガリア戦線での戦死も大きな痛手を与えたと伝えられている。

  • 白鳥義彦,2011,「方法としての『社会』——E.デュルケム『社会学的方法の規準』」井上俊・伊藤公雄編『社会学ベーシックス 別巻 社会学的思考』世界思想社,13-22.

デュルケムの年表(田中 2021: 45)

1858/4/15エピナル(フランス)で生まれる
1879(21)エコール・ノルマル入学
1885-87(27-29)ドイツ留学
1887(29)ボルドー大学教授(社会科学と教育学)
1893(35)『社会分業論』(学位論文)出版
1895(37)『社会学的方法の規準』出版
1897(39)『自殺論』出版
1898(40)『社会学年報』創刊
1906(48)パリ大学(ソルボンヌ)教授(教育学、のちに教育学と社会学)
1912(54)『宗教生活の原初形態』出版
1917/11/1559歳で没
  • 田中耕一,2021,『社会学的思考の歴史——社会学は何をどう見てきたのか』関西学院大学出版会.