この制裁が他ときわだって違うところは、それが罪をつぐなうということではなくて、たんに原状の回復に帰着するということである。この復原的法律を犯したり、それを軽んじたりしたものに、その悪業に相当した苦痛が科せられる、というのではない。ただその法に服するように言渡されるだけである。すでにそうした事実があったとすれば、裁判官はその事実があるべきだった状態に回復させる。裁判官は法を語るが、刑罰については語らないのである。損害賠償は刑罰という性質をもつものではない。すなわち、それは、ただ過去をできるだけ正常な形で復原させるために、過去にたち返る一手段であるのにすぎない。
……これらの準則にたいする違反は、ひろく分散した刑罰によって罰せられることもない。訴訟人は、訴訟に敗れたからといって、屈辱的な罰を受けたわけでもなければ、自分の名誉がけがされたわけでもない。われわれは、これらの規則が現存のものと違ったものになるとしても、それでわれわれが憤慨するようなことはないと考えることさえできる。殺人は許されてもいいという考え方は、われわれを憤激させる。だが、相続法が改正されるということについては十分納得できるし、多くのひとは、それが廃止されるかもしれぬとさえ考えつく。こうした問題は、少なくともわれわれがそれについて論議することを拒まない問題である。
……復原的制裁を伴う諸準則が、あるいはまったく集合意識の一部となっていないか、あるいはその弱い状態でしかない、というのがその証拠である。抑止法は、共同意識の核心であり中枢であるものに対応している。
- Durkheim, E., 1893,De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,2017,『社会分業論』筑摩書房.)pp.196-8