有機的連帯(デュルケム『社会分業論』)

 分業が生みだす連帯は、これとまったく別である。前記の連帯が諸個人の相似を意味するのにたいして、この連帯は、諸個人がたがいに異なることを前提とする。前者は、個人的人格が集合的人格に吸収しつくされているかぎりにおいてのみ可能であるが、後者は、各人が固有の活動領域を、したがって一個の人格をもつかぎりにおいてのみ可能である。だから、集合意識が規制しえない専門諸、機能がそこに確立されるためには、集合意識は個人意識の一部分を蔽わぬままに残しておかなければならない。また、この開放部分が広ければ広いほど、この連帯から由来する凝集力は強い。じじつ、一方では、個人は、その労働が分割されればされるほど、いっそう密接に社会に依存し、他方、各人の活動が専門化されるほど、いっそう個人的となる。もちろん、この活動は、どれほど局限されようと、けっして完全に独創的ではない。われわれは、自分の専門的な仕事を遂行するに際しても、その属しているあらゆる団体に共通な慣習や慣行に順応しているからである。だが、このばあいでも、われわれの受ける束縛は、全社会がわれわれにのしかかってくるときよりも、はるかに軽いし、われわれのイニシアティヴの自由な活動のために、はるかに多くの余地を残している。ここでは、だから、全体の個性がその部分の個性と同時に高まり、社会は、その各要素のひとつひとつが固有の動きをもつようになると同時に、全体としてますます活動的になる。この連帯は、高等動物に観察される連帯とそっくりである。じじつ、そこでは、各器官には、その専門的な特徴、その自律性があるけれども、有機体としての統一性は、この部分の個性化がいちじるしくなるほど、大きくなる。このような類推からして、われわれは、分業に負う連帯を有機的とよぼうと思う。

  • Durkheim, E., 1893,De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,2017,『社会分業論』筑摩書房.)pp.224-5