類似から生まれ、個人を社会に直接結びつける、ひとつの独自の連帯が結果する。われわれは、この連帯を機械的とよぼうと思うが、その理由は次章においてもっとよく示したい。この連帯の特質は、集団にたいする個人の、一般的かつ不確定な愛着にあるというだけではなく、また細部にわたって諸運動を調和させるものである。じっさい、これらの集合的原動力はどこででも同じであるから、いたるところで同じ結果を生む。したがって、これらの集合的原動力が活動しだすたびに、各人の諸意志は、ひとりでにまとまって同じ方向に動き出すのである。
じっさいにこの法律が禁止し、犯罪として認定する行為は、つぎの2種類である。第1は、行為を遂行する主体と、集合類型との対立する両者のきわめていちじるしい非類似性を直接あらわにする行為であり、第2は、共同意識の機関を侵す行為である。いずれのばあいでも、犯罪によって害を加えられる力と犯罪を駆逐する力とは、したがって同じものである。この力は、もっとも本貿的な社会的類似の所産であり、しかも、これらの類似から生ずる社会的凝集を維持する効果をもつ。刑法は、まさしくこの力が衰微しないように保護するものであって、そのために刑法は、われわれ各人に最小限の類似——これがなければ個人は社会体の統一にとってまさに脅威である—を要求する一方、われわれに、このような類似をあらわしこれを要約する象徴を尊敬するよう強制することによって、この類似を保障するのである。
- Durkheim, E., 1893,De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,2017,『社会分業論』筑摩書房.)pp.183-4
類似から生ずる連帯は、集合意識が厳密にわれわれの総意識をおおい、あらゆる点でこれと合致しているときに、極限に達する。だが、この瞬間、われわれの個性はゼロである。個性は、共通性がわれわれのなかに占める場所が少ないときにのみ、生まれる。そこでは、二つのあい反する力がある。ひとつは、求心力であり、他は遠心力である。両者は同時に大きくなることができない。人間は、正反対の二方向にむかって同時に発展することはできぬ。人間が自分の力で考え行動しようとする活発な傾向をもっているとすれば、他者と同じように考え行動する傾向が強いなどということはありえない。人間の理想とは、固有の相貌、個性的な特徴をつくりあげることだとすれば、万人に似る、ということは理想ではない。のみならず、定義してきたことから、この連帯がその力を行使する瞬間において、人間の人格は消滅する、といってよい。なぜなら、そのときわれわれは、もはや自己自身ではなく、集合的存在だからである。
この言葉(注・機械的連帯)は、この連帯が機械的な手段、人為的な手段によってつくりだされることを意味するものではない。無機物の諸要素をたがいに結合させる凝集力との類推において、そう名づけるまでであって、それは生物体の統一をつくりあげる凝集力とは対照的である。この名称をついに正当ならしめるのは、こうして個人を社会に結びつける紐帯が物を人に結びつける紐帯とまったく似ているということである。このような側面からみたかぎりでの個人意識は、集合類型のたんなる付属物であり、後者の動きにことごとく追随するものである。それは、ちょうど、所有されたものが、その所有者のひきおこす動きにつれて動くのと同じである。もっと後で述べるように、機械的連帯がきわめて発達した社会では、個人は自由ではない。文字どおり、個人は社会の思うがままである。また、これと同じ類型の社会では、対人権と対物権とが依然として区別されてはいない。
- Durkheim, E., 1893,De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,2017,『社会分業論』筑摩書房.)pp.223-4