デュルケムは、……マックス・ウェーバーより6歳年上ですが、ほぼ同世代といってよいでしょう。この二人に共通する背景となる重要な歴史的出来事は、やはり前章で触れた1870〜71年の普仏戦争(プロイセン-フランス戦争)です。ウェーバーはこの戦争で勝った側(プロイセン王国)、デュルケムは負けた側のフランス(フランス帝国)の人でした。もっとも、当時はまだ二人とも子どもですが、プロイセンはこの戦勝がきっかけでドイツ帝国の中心となり、ビスマルク首相のもとで急激に発展していくのに対して、フランスはこの敗戦によって帝政が崩壊します。
この崩壊した帝政は第二帝政といって、フランス革命を終息させたナポレオン1世の甥、ルイ=ナポレオンが国民投票によって皇帝ナポレオン3世となっていました。その治世に、フランスはパリの都市大改造、アジア・アフリカの植民地拡大などに着手し、工業・経済が急激に発展しました。しかしそんなフランス帝国も、普仏戦争の敗北で一気に転落してしまいます。フランスでは再び共和政が復活し、第三共和政がスタートしますが、プロイセン(ドイツ)への莫大な賠償金支払いのため、経済は疲弊し、政治も不安定になりました。
当時の社会の混乱を示す出来事の一つが、1894年のドレフュス事件です。この事件は、当時フランス陸軍参謀本部の大尉だったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件です。この事件は後にはっきり冤罪となりドレフュスに罪はなかったことがわかりますが、当時の人々からすれば、強大なフランスがプロイセンなんかに戦争で負けるはずがないと思い込んでいましたから、負けたのはきっと身内にスパイがいたからだ。という説には、都合のいいリアリティがあったのでしょう。しかしまた一方で心ある人たちはドレフュスを擁護し、証拠不十分のまま有罪とした軍部を批判します。こうしたドレフュス擁護派は共和政を支持する共和派に多く、判決(ドレフュス有罪)を支持する軍部・教会は王政復活をもくろむ王党派だったため、この対立はフランス社会全体を巻き込んだものになっていきます。
このとき、自らもユダヤ人だったデュルケムは、ドレフュス擁護派に立ち、この社会の分裂を危機感をもって見ていました。そのなかで、どうすればフランスが再び一つの国として復活できるだろうか、と考えていたわけです。
フランスは18世紀の終わりに過激な革命を経験した後、ナポレオンが皇帝になったり、かつて処刑された王の弟が復位して王政に戻ったり、また共和政になったかと思えばまた強力なリーダーが求められてナポレオン3世の帝政になったりしました。そしてそれも普仏戦争の敗北で終わったわけです。この間、市民革命や産業革命を経て、人々の生活や考え方は大きく変わっていました。そして、かつての社会秩序を治めていた宗教・政治・同業組合などの伝統的権威は、もはや大きな力を持っていません。では、その代わりに何が、社会をまとめることができるでしょうか。デュルケムは、ウェーバーとは生きていた国は違いますが、いずれにせよこのような先の見通せない時代に、近代社会がこれからどうなっていくのか、いくべきかという問いに立ち向かった人だったのです。
- 木村至聖,2022,『歴史と理論からの社会学入門』ナカニシヤ出版.pp.38-40