同じ社会の成員たちの平均に共通な諸信念と諸感情の総体は、固有の生命をもつ一定の体系を形成する。これを集合意識または共同意識とよぶことができる。もちろん、それはただひとつの機関を基体としてもっているわけではない。それは、定義によって、社会の全範囲に広く分散している。にもかかわらず、それはみずからを明確な一実在たらしめる諸特質をもっている。じっさい、それは諸個人がおかれている個別的な諸条件とは無縁である。個人は過ぎ去るが、集合意識は残る。北国においても南国においても、大都会でも小都市でも、あるいはどんな職業においても、それは同一である。同様に、それは世代ごとに変わったりはしない。むしろ、ある世代とつぎの世代とを結びつける。それだから、集合意識は諸個人のうちにおいてしか実現されないとはいえ、各人の個別的な諸意識とはまったく異なったものである。それは社会の心理的類型である。様式こそ異なっているが、個人の諸類型とまったく同様に、みずからの属性、みずからの生存条件、みずからの発達様式をもつ類型である。だからこそ、それは右のような特別の用語でよばれるのが至当である。
……ある行為は、それが集合意識の強力かつ明確な状態を侵すとき犯罪的である。
……ある行為は、犯罪的であるから共同意識を傷つけるのではなく、それが共同意識をそこなうから犯罪的だといわなければならない。われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである。
- Durkheim, E., 1893, De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,2017,『社会分業論』筑摩書房.)pp.183-4