ウェーバーのプロフィール(ヴェーバー表記)(田中 2011: 7-9)
ヴェーバーは1864年4月にドイツのエアフルトに生まれた。父は織物製造業を営む企業家の家系を出自とする法律家・政治家であり、母方の祖母も富裕な織物卸売業者の家系に属していた。父のベルリン市参事会員就任に伴い1869年に一家はベルリンに転居し、ヴェーバーはそこで経済的にも知的・文化的にも恵まれた少年期を過ごした。W. ディルタイ・T. モムゼン・H. トライチュケらをはじめ多数の学者や政治家が出入りするヴェーバー家での経験は、ギムナジウムでの勉学とともに彼の精神的素養の基礎となった。1882年からはハイデルベルク大学で法律学、経済学、歴史学等の勉強を始め、シュトラスブルクでの兵役を経て84年には実家に戻ってベルリン大学で勉学を続けた。89年に中世の商事会社史に関する研究で学位を、次いで91年に『ローマ農業史』により教授資格を取得した。92年からベルリン大学で私講師・員外教授としてローマ法、ドイツ法、商法を講じたのち、94年にフライブルク大学、96年にハイデルベルク大学の国民経済学の正教授に就任、経済学者としてキャリアをスタートさせた。この間、社会政策学会の依頼による東エルべ地域の農業労働者に関する調査や取引所制度の研究等で農業問題に関する専門家として認められた。
このように初期のヴェーバーはきわめて順調な経歴をたどっていたが、1897年に重い神経疾患に陥り、職務の遂行が困難になったため、休職を経て1903年にはハイデルベルク大学を辞職するに至る。その後病気から回復したのちも、最晚年にウィーン大学とミュンへン大学で短期間講義をしたのを除いて大学の教壇に立つことはなかった。しかし、彼は1904年以降は自らが共同編集者となった雑誌『社会科学・社会政策雑誌』を主要な発表の場として精力的な著作活動を続けたほか、ドイツ社会学会創設(1909年)にもF. テンニース・W. ゾンバルト・G. ジンメルらとともに役員として関与した。
回復後のヴェーバーは、「ロッシャーとクニース」(1903-06)、「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」(1904)をはじめとする新カント学派の影響下に書かれた社会科学方法論に関する一連の論文とともに、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904-05,02巻5章)を公刊し、研究活動の新たな局面に入った。社会経済史(「古代農業事情」(1909)等)や社会政策に関わる研究に加えて社会学(特に宗教社会学)へと研究領域を拡大させたのである。
ヴェーバーは晚年に2つの大プロジェクトに取り組んだ。1つは彼が監修する講座『社会経済学綱要』の第3部として執筆され、今日『経済と社会』のタイトルで知られる体系的社会学の研究である。これは彼の存命中に完成できず、その膨大な草稿を妻のマリアンネが編纂して1922年に刊行した。……もう1つは比較歴史社会学的モノグラフからなる『世界宗教の経済倫理』であり、西洋においてのみ資本主義や官僚制といった合理的諸制度や合理的文化が内発的に成立・定着しえた原因を解明しようとしたものである。1915年以降「儒教と道教」「中間考察」「ヒンドウー教と仏教」「古代ユダヤ教」(未完)等を発表し、この後さらにイスラムと古代・中世のキリスト教を取り上げる予定だったが、果たせなかった。
なお、ヴェーバーは青年期から晚年までジャーナリズムの世界で自由主義的・現実主義的ナショナリストの立場から政治的発言を行い(それらは『政治論集』に収録されている)、政界進出にも関心を抱いていた。第一次大戦後、新憲法草案作成に関与したほか、講和条約締結の際も代表団の一員として加わった。1920年6月、彼はワイマール共和国の行く末を見届けることなく肺炎により急逝した。
- 田中紀行,2008,「行為の理解——M.ヴェーバー『社会学の基礎概念』」井上俊・伊藤公雄編『社会学ベーシックス 1 自己・他者・関係』世界思想社,3-12.
ウェーバーの年表(田中 2021)
1864/4/21 | エアフルト(ドイツ)で生まれる |
1882(18) | ハイデルベルク・ベルリン・ゲッティンゲン大学で学ぶ |
1889(25) | 博士学位取得 |
1890-91(26-27) | 農業労働者の生活実態調査を実施 |
1892(28) | ベルリン大学私講師 |
1894(30) | フライブルク大学教授(経済学) |
1896(32) | ハイデルベルク大学教授 |
1904-05(40-41) | 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 |
1908(44) | 織物労働者調査を実施 ジンメルらとともに、ドイツ社会学会創設に努力 |
1910(46) | 第一回ドイツ社会学会開催 |
1916-17(52-53) | 「世界宗教の経済倫理」活発に政治活動、ドイツ民主党の結成にも参加 |
1919(55) | ミュンヘン大学教授 |
1920/6/14 | 56歳で没 |
- 田中耕一,2021,『社会学的思考の歴史——社会学は何をどう見てきたのか』関西学院大学出版会.p.74