郊外化が進むと、その郊外自体が社会学的なモザイクに断片化していった——集合的に異質であるが、個別には等質的であり、人種、階級、教育、ライフステージその他によって分離された精密に区別可能な「ライフスタイル小群落(エンクレイブ)」へと人々は脱出していったのだった。いわゆる白人の郊外脱出(ホワイト・フライト)は、大都市の分化へと向かったこの動きの中で最も目立っていたものにすぎない。世紀の終わりには、ある郊外は上位中流階級(アッパーミドル)のものだが、その他の多くは中流、下層中流、さらには労働者階級のものとなった。白人のための郊外があり、黒人、ヒスパニック、アジア人のものがあった。子どもに焦点の置かれた場所があれば、気ままな独身者や、子どもが巣立つたり、退職した裕福な者で占められているところもあった。郊外の多くはテーマパークに似てくるようになり、そこでは建築が統一され、コーディネートされた施設やブティックが備わっていた。1980年代には「共有権益(コモン-インタレスト)開発」と「ゲート付きコミュニティ」が増加を始めた。そこでは住宅所有者組合とガードマンで警備された目に見える物理的な壁によって、それぞれのコミュニティを近隣から区別する不可視の社会学的な壁を補っている。1983年では、カリフォルニア州オレンジ郡での開発計画の15%がゲート付きコミュニティであり、5年のうちにその割合は倍増した。
これらの新たな郊外小群落における圧倒的な等質性が、たとえ「結束的」なものに限定されて「橋渡し的」でなかったとしても、ある種の社会的つながりを促進すると期待する向きもあるかもしれない。1990年代の郊外開発業者も、1950年代の先行者と同様、コミュニティを売り続けている。「あなたが生まれ育った通りを覚えていますか?」とは、あるインターネット上の広告である。「隣同士が知り合いの場所。そんなところにもう一度住みましょう——ホイートランド・グリーンフィールドへ。グリーンフィールドは、素敵な暮らしを願う家族のための、伝統的なふるさとです」。
しかし、実際には逆の方向を示す根拠が大半である。演説する政治家や、クッキー売りのガールスカウトが排他的なコミュニティから閉め出されているだけではなく、そこの裕福な住民自身においても、市民参加や人付き合いが境界線の内側ですら驚くほど少ないことが明らかとなっている。(中略)
民族誌学者のM.P.バウムガートナーがニュージャージーの郊外コミュニティに住んでいたとき、彼女が見いだしたのは1950年代の古き郊外に起因する強迫的な連帯感よりも、細分化した孤立、自主規制、そして「道徳的最小主義(ミニマリズム)」の文化だった。郊外の特徴というのは小さな街のつながりを求めるのではなく、内側に閉じこもり、近所に何も求めず、お返しも何も期待しないというものだった。「郊外とは、最新型の私事化(プライバタイゼーション)であり、その致死的な完成形ですらある」と、都市建築家のアンドレス・デュアニーとエリザベス・プラターザイバークは論じる。「そして、それは伝統的な市民生活の終焉をもたらす」と。
- Putnam, Robert, 2000, Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community. New York: Simon & Schuster. (柴内康文訳,2006,『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』柏書房.)pp.253-5