[1] Durkheim,Émile, 1897, Le Suicide : Étude de Sociologie, Paris: Félix Alcan.(宮島喬訳,1985,『自殺論』中央公論社.)
私の実践している社会学的方法は一に帰して、社会的事実はものと同じように、いいかえれば、個人の外部にある実在と同じように研究されなければならない、という基本的原則の上に立てられている。(中略)
さて、それとは反対に、いわば本書の各ページからは、個人は、個人をこえたひとつの道徳的実在、すなわち集合的実在によって支配されているという印象がでてこないわけにはいかないとおもう。各民族には固有の自殺率があること、その率は一般死亡率よりも変化しにくいこと、それが変化するときには各社会の固有の増加率にしたがうこと、およびそれが、日、月、年のなかの各時点でしめす変化は、もっぱら社会生活のリズムを再現していることを知るとき、また、結婚生活、離婚、家族、宗教社会、軍隊などが、ばあいによっては数字でも表現できるような明確な法則によって自殺率に影響を与えていることを確認するとき、人びとは、これらの事態や制度を、力も効果ももたない、なにかしら観念的なこしらえものとみることをやめるにちがいない。むしろ、それが生きた、効果のある実在的な力であることを感じるであろうが、それがどのように個人を規定するかをみることによって、それが個人にもとづく力ではないことも十二分に証明される。かりに個人がこの力を生みだす結合に一つの要素として参加するとしても、この力が形成されていくにつれて、それは個人の上に拘束をおよぼすようになる。こうした条件を考えれば、社会学がいかにして客観的でありうるか、また客観的でなければならないかが、よく理解されよう。というのは、社会学は、心理学者や生物学者が取り扱っている実在におとらない明確な確固とした実在を、対象としているからである。