禁欲的プロテスタンティズムと富の蓄積(高橋 [1986]2011: 355-6)


[1] 高橋由典,[1986]2011,「プロテスタンティズムの倫理と資本主義(M・ウェーバー)」作田啓一・井上俊『命題コレクション 社会学』筑摩書房,349-59.

 カルヴィニズムの上に述べたような職業観は……禁欲的プロテスタンティズム一般に共有されていたと考えられる。この職業観は、当時生産活動に従事していた人びとによってどのように受けとめられただろうか。彼らの場合、職業労働に専心するということは具体的にいえば、自らの経営努力によってできるだけ多くの利潤をあげるということであった。つまり営利活動に精を出し、富を獲得することが彼らの救いのしるしとなったのである。利得についてのこうした考え方は、それまでのキリスト教の伝統の中にはないものであった。「神と富とに兼ね仕えることはできない」とするキリスト教的伝統においては、富は常に危険なものとみなされていたからである。富を得る行動も当然、宗教的には問題のあることであった。熱心な信仰者は自らの営利活動に何らかの疚しさを感じていたと考えられる。
 禁欲的プロテスタンティズムにおいて初めてこのような伝統が破られ、営利が宗教的に合理化されることになった。信仰に熱心な人ほど営利追求に励むことになったのである。もちろん禁欲的プロテスタンティズムにおいても富それ自体は危険視されていた。従って獲得した富の使用法について人びとは慎重であった。自己の享楽のためにそれを用いることは原則として斥けられた。富は神と自分の関係を示すしるし以外のものではなかったからである。自己の欲望を実現する手段として用いてしまえば、そのとたんに「しるし」としての性格は失われてしまうだろう。こうして禁欲的プロテスタントたちは一方でひたすらに(しかも正当な方法で)営利追求しつつ、他方で徹底的に消費を抑制することになった。そうなると当然彼らの手に多くの富が残るようになる。消費的使用を禁止されたこの富は投下資本としてもっぱら生産的利用に供せられた。このような形で拡大再生産の過程が始まり、近代資本主義の出発点が形成されたのである。