奥村隆,2018,「社会と社会学——社会学は社会のどこで生まれるか」奥村隆編『はじまりの社会——問いつづけるためのレッスン』ミネルヴァ書房,1-18.
社会とは「空気」のようなものではないか。私たちの周りには空気があって、私たちを取り囲んでいる。私たちはそれを呼吸して生きているし、その圧力のもとで身体を維持している。でもふだんは空気のことを意識などしない。それはごくあたりまえに周りにある。だが生きるために不可欠だ。空気がなくなれば生きていけないし、少しでも薄くなったり、汚れたりしたら私たちは苦しくなるだろう。それほど大切だが、とてもあたりまえで、ほとんど意識されない、つかみどころのないものだ。
あるいは社会とは「重力」のようなものではないか。重力もまた私たちにいつも働いていて、私たちは重力のもとでどう立ったり座ったりすればいいかを身につけている。もちろん重力があるのはあまりにあたりまえで、誰も意識しないだろう。でも、なかなか想定しづらいが、重力のあり様が少しでも変われば、私たちの身体は大きな影響を受ける。それを意識するのは、たとえば宇宙空間に行った宇宙飛行士だ。無重力状態を経験した人は、地球に帰ってきて「重力」の存在をはっきりと感じるだろう。私たちにとって決定的に重要だが、あまりにもあたりまえで、ほぼ気づかれないもの。そのなかでどう生きればいいかをよく知っていて、それが少し変化すると生きづらくなる(あるいは、逆に生きやすくなる)もの。
「空気」や「重力」が感じられるのはどういうときか。そこから類推してみて、「社会」が感じられるのはどんなときかを考えてみたらどうだろう。その存在にほとんど気づかない「空気」や「重力」が確かにある!と感じるのと同じように、「社会」が確かにここにある!と感じるのはどういうときなのだろうか。社会はいつどのように姿をあらわすのか。(中略)
ただし、ここでひとつ断っておきたい。……「空気」も「重力」も人間がつくったものではない。しかし「社会」は間違いなく人間がつくったものである。私たちが日々つくりつづけているものである。ここが「空気」や「重力」とは決定的に違う。
第一に、仮に「空気」や「重力」が謎としてあらわれ、それを観察したり研究したりしようとするとき、観察する私(たち)と対象である「空気」や「重力」はまったく別ものだ。……ところが、そのなかに私(たち)がいる「社会」については、対象を観察する私(たち)と対象である社会をつくる私(たち)は重なってしまう。つまり、社会をつくる人自身が、社会のなかにいながら、社会を観察する。社会に働きかけ社会に働きかけられる社会の一員でありながら、社会という自分(たち)がつくったものを観察する。
第二に、だから「社会」は変えることができる、ということだ。もちろん「空気」も(「重力」はたぶん無理だが)変えられるかもしれない。あたりまえで見えないときは、空気が汚れていて息苦しくてもどう変えていいかわからないが、それを観察して見えるようになると、どうきれいにすればいいか考えられるようになる。それと同じように、「社会」もあたりまえで見えないとき、言葉にできず、どう考えていいかわからず、変えられない。しかし、それを見えるようにし、言葉にし、考えられるようになるとき、変えることができる。それは私たち自身がつくっているのだから、つくり方を変えれば変えることができる。
私たちは「社会」のなかにいて、「社会」をつくっている。そして同時に、「謎としての社会」を観察し、言葉にし、考えようとする。この二重性は、とてもやっかいで難しい。と同時に、この二重性こそが、私たちが「社会学」をする原動力であり、もし「社会」をもっとよいものに変える可能性がなければ、「社会学」の意味は限りなく小さくなる。