[1] Weber, Max, 1904, Die ‘Objektivität’ sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis. (富永祐治他訳,1998,『社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」』岩波書店.)
もとより、編集者(注:社会科学の論文雑誌)が、みずからにたいしても、寄稿者にたいしても、かれらを鼓舞している理想を価値判断として表明することをも、今後いっさい禁止するというわけにはいかない。ただ。そこからは、ふたつの重要な義務が生ずる。まず、これはあまりにもしばしば見受けられるところであるが、異なる種類の価値を不分明に混同して、理想間の抗争に目をつぶり、「誰にたいしても、なにかを提供したい」と欲したりする代わりに、〔自分がそれによって〕実在を評価し、〔そこから〕価値判断を導き出す〔ところの、究極最高の価値〕規準が、いかなるものであるかを、つねに読者と自分自身とに、鋭く意識させるように努める、という義務である。この義務が厳格に守られさえすれば、実践的に態度を決め判断をくだすことは、純然たる科学のためにも、たんに無害であるだけでなく、直接に有用でもあり、それどころか。そうすることが〔義務として〕命じられることさえある。というのも、立法その他の実践的提案を科学的に批判するさい、立法者の動機や、批判の対象とされる著述家の理想を、その意義において解明するには、かれらの根底にある価値規準を他の価値規準と対決させ、そのさい最善の方法としては、もとより自分自身の価値規準と対決させることによって初めて、判然と理解できる形式にまでもたらされることが、きわめて多いからである。他人の意欲にたいする意味のある価値評価は、いずれも、自分自身の「世界観」からの批判、自分自身の理想を基盤とする他人の理想との闘いであるほかはない。それゆえ、個々のばあいに、実践的意欲の根底にある究極の価値公理をたんに確定し、科学的に分析するだけでなく、他の価値公理との関係において判然と理解しようとすれば、まさしく、他の価値公理との関連を叙述することによる「積極的」批判が、避けられないのである。