奥村隆,2009,「Aくんへのレッスン(1)——対話と遊戯としてのコミュニケーション」長谷正人・奥村隆編『コミュニケーションの社会学』有斐閣,24-43.
では相互作用になにを見出すか。唐突だが、「橋」や「扉」を想像してもらいたい。橋がかかると岸と岸が結びつくが、それまで気にならなかった両岸の距離も思い知らされる。ふたつの部屋の間に扉ができると部屋は結合するが、開きうる扉が閉められると両部屋の分離がより強く意識される。このように結合があるところに分離があり、分離があるところに結合がある(ジンメル 1909=1999 )。「額縁」や「取っ手」も絵や水差しと周囲を切り離し、結びつける(ジンメル 1902=1999 ; 1905=1999 )。結びつくか/離れるかではなく、結合するから分離し/分離するから結合する。私たちはさまざまな境界にこの両義性を発見する。相互作用もこの両義性に満ちているのではないだろうか。
いくつか例をあげよう。「大都市と精神生活」(ジンメル 1903=1976 )という講演でこう話したことがある。大都市住民の特徴的な態度は「冷淡さ」で、小都市での積極的に関心を向けあう態度に比ベ社会が解体するように見える。だが多様な人びとと出会う大都市で小都市的な態度をとると、憎悪や闘争や完全な無関心が生まれかねない。大都市住民は冷淡な態度によってこれを防ぎながら多くの人びとと接しうる。心のうちにかすかな嫌悪や反感が存在するかもしれないが、距離をとることで暴発せずにすむ。またこの関係は小都市の窮屈さや偏見とは反対に、個人の「自由」も生むだろう。近づけば近づくほど(結合するほど)いいという態度は関係の破綻を生むかもしれず、「分離」した態度こそ「結合」を可能にする。
より熱い分離、「闘争」を考えてみよう。私は、ただ調和的で「結合」するだけの集団は非現実的だし生き生きしないと思う。内部に闘争という「分離」があってそれが調停されるとき、集団内の相互作用は活性化される。また、外部との闘争という「分離」は集団内部を強く「結合」させるが、ふだん折り合いがつけられた敵対が露になり集団を崩壊させることもある。分離が結合を生み、結合が分離を生む。私の考えでは、社会とは「調和と不調和、結合と競争、好意と悪意のなにほどかの量的な割合を必要」とし、調和、結合、好意だけの社会がよいという考えは通俗的で皮相な見解である(ジンメル 1908=1994: 上264)。