『韓国人企業家』にとっての人的資本(林 2004: 55-7)

 人的資本(Human Capital)とは、経済学者ゲーリー・ベッカー(Becker 1964)によって提唱される概念である。人的資本とは、教育程度や就業経験など個人としての資質を意味し、教育や熟練に対して個人的な投資が蓄積されたものと見なされる。ベッカーは、教育、職場の訓練、仕事の経験などによって個人が人的資本を蓄積し、蓄積された人的資本は労働の生産を高めると論じた。このように、人的資本は行為者個人が所有する資本であり、個人の努力などの個人的属性が強調される。

 人的資本の形成には経済的なコストが必要となるので、経済学者は人的資本を経済資本のように考える。人的資本の獲得に必要なコストとしては、教育費や交通費、下宿費などの直接的コスト・あるいは、就業したならば獲得できたであろう報酬——機会コスト-——である。しかしながら、「人的資本を買う(形成する)という意思決定は、収入よりも文化に関わるものである。……つまり、人的資本を買う能力を提供する経済資本を所有する人々は、人的資本の獲得を奨励する文化も所有するのである(Light and Gold 2000: 88)。

 このように、文化が教育達成を支持する視点を提供するので、これをブルデュー(Bourdieu 1988)は「ハビトゥス(我々が世界を理解する精神構造)」と呼んだ。また、コールマン(Coleman,1988)は、教育という人的資本の創造において社会関係資本が果たす役割を指摘し、親たち同士の特定のネットワーク構造(社会関係資本)には子供を学校に志向させる規範(文化資本)が存在するので、その規範が子供への教育効果(人的資本)を高めると論じた。このように、人的資本の獲得には、経済資本だけでなく、文化資本や社会関係資本も関係するのである。

 人的資本は、起業過程における重要な資本として認識されてきた。学校教育などの人的資本は個人の生産性を増加させる資源であるので、起業過程において、人的資本を保有する企業家は保有しない企業家よりも有利である。人的資本が起業率を高める傾向が見られ、米国の企業家の場合、教育レベルが高いほど自営率も高かった(Light and Gold, 2000: 88)。

 また、エスニック企業家は、非公式な方法で家族や同種エスニック労働者に経営方法、伝統料理、職人の技などの人的資本を教える場合が多い。つまり、エスニック企業家の起業関連の技術や訓練は同種エスニック企業の中で見習として働きながら獲得するのである(Boissevain and el al., 1990: 140-141)。たとえば、移民企業家の職歴では、最初皿洗い、ウエーター、マネージャー、そして企業家へと成長する。エスニック労働者が小規模の同種エスニック企業で働けば、起業に必要な経営方法を簡単に習得することができる。言いかえれば、移民企業家の労働市場は、ホスト社会の労働市場とは分離した位置にあって、いわばエスニック・ネットワーク内部の労働市場における「訓練システム」を構成する。これは、エスニック・ネットワークにもとづく「労働市場情報が伝播し、労働者が採用され、技術が獲得されるメカニズム(Bailey and Waldinger 1991: 433)」である。エスニック労働者はホスト社会において不利な立場にあるので、エスニック企業家が提供する雇用機会が低賃金で長時間労働であっても、エスニック労働者はその仕事に就き、その仕事を通じて起業に必要な熟練を獲得するのである。

 同様に、エスニック企業家が同種エスニック労働者を採用する方法は、親族や友人などのエスニック・ネットワークを通じて行われる。このような非公式の採用は、企業家と労働者、あるいは、労働者同士の信頼に基づくものである。つまり、エスニック・ネットワークによる採用によって、労働者が短期間で他の企業に移動する確率を減らし、企業家が安心して労働者に職業訓練や企業経営のノウハウを伝播することが可能になる。起業ならびに経営に成功した企業家の下で雇用(訓練)される労働者は、その企業家を役割モデルとみなし、起業への動機づけが強化される。要するに、就業情報はエスニック・コミュニティに埋め込まれているので、その中でエスニック企業家への職業経歴(職業訓練)が展開され、エスニック企業家の人的資本は、エスニック・ネットワーク(社会関係資本)を通じて形成され、職業経歴によって蓄積されていくのである。


林永彦,2004,『韓国人企業家――ニューカマーの起業過程とエスニック資源』長崎出版.pp.55-7