私が大衆演劇というフィールドに足を突っ込むこととなったのは、1982年のことである。偶然といえばこれほどの偶然もないだろう。なにしろそれは、通学電車の網棚に捨てられていた新聞をなにげなく手にとったことがきっかけになったのだから。
「また消える大衆演劇の灯/人材育てて33年、尼崎・寿座・三月限り/後継難に勝てず」
目に入ったのはこんな見出しの記事。妙にそれが心にひっかかって、くだんの寿座に足を運んだのは、それから2週間後のことだった。もちろん、大衆演劇を見るなど、生まれて初めての経験である。
正直いって、ものすごくおもしろいとは思えなかった。ただ、現に、こういうものを喜んで見る観客がいて、それをなりわいとしている役者や劇場関係者がいるという事実が、私にとってはとても重いものに感じられた。
終演後、客席に残っていた私に、劇団の補佐役らしい中年の役者が話しかけてきた。そのまま楽屋まで上がり込み、それこそフィールドワークのまねごとめいたインタビューをしているうちに、こういう世界のことを論文に書いてみたいと思うのですが、という話になった。すると、その役者は私にこういった。
「こういう団体生活は、外から見るだけじゃわからないよ。1カ月でもいいから、一緒に生活をして、同じもんを食べて、街風呂へでも一緒に行ったら、この世界のよさも、悪さもわかる。踊りの一本でも、芝居のセリフの一つでも、私が教えてあげるから、やってみたら」
「はい、お願いします」
なんのためらいもなく、私はそう返事していた。私としては、かねがね、どこか遠い外国ではなく、私自身が生きているこの日本社会でじっくり腰をすえたフィールドワークをやりたいと思っていたところだし、そのチャンスを先方から提供してくれるなんて、千載一遇の好機だったからである。まあ、劇団にとっても、慢性的な人手不足状態を解決する手段のひとつだという期待があったかもしれない。すくなくとも、私を一目見て、「こいつは役者の素質がある」と判断してのことではなさそうである。いずれにしても、こうして、ものはためしと見に行った大衆演劇が、私にとってのフィールドとなったのである。
それから1年2カ月の間、私は、大衆演劇の役者、南條まさきとして、化粧をし、衣装を着、芝居をし、踊りをおどり、唄をうたい、裏方をつとめるという生活をおくった。それは、参与観察というフィールドワークの方法の、一方の極をつきつめたものだったといえるかもしれない。
初舞台は入団わずか6日目。『おけさ鴉』という芝居の村の男、竹蔵役だった。いちおう名前はついているが、通行人に毛が生えたようなものだ。セリフは「今日は年に一度の村祭りだ。さあみんなで行こう」というふたことだけ。小学校の学芸会でもこれ以上のことはできるはずとタカをくくっていたところが、これがじつにみじめなものだった。
南條まさきか、鵜飼正樹か
生まれて初めて、私の身体が経験する化粧がかゆい。後が痛い。衣装が重い。それよりも、一歩舞台に足を踏み出したとたんに押し寄せてくる客席の暗闇に圧倒されるばかり。ひとこともせりふをいわないまま、しかも出番をまちがえて、ただ花道から出て上手に入ってしまった、これが南條まさきの大衆演劇の初舞台だったのである。
一方、歌謡ショーでは、いきなり1万円札1枚とレイ10本をもらうという、衝撃的デビューをとげる。もっともこれは別の役者が気をきかせて自分のひいき客にことづけておいてくれたからだったのだが、その後も歌謡ショーでは、石鹼やタバコ・服などをよくもらったりした。
このころの私をとらえていたのは、劇団の中で私は、南條まさきと鵜飼正樹のどちらであるべきなのだろうか、という問いだった。
私はまず、役者・南條まさきとして遇された。劇団の座長の弟子であり、いちばんの下っ端だった。座長を「先生」と、他の劇団員を先輩として「兄さん」「姉さん」と呼ぶこと。これが、いちばん最初に教えられたことである。それにたいして私は「まさき」と呼び捨てにされた。舞台にも立たなければならないし、囉子(音調)や投光(照明)、さまざまな雑務もこなさなければならなかった。
だが、フィールドワーク中の研究者という立場からいえば、こういったことは研究のさまたげでしかない。もっともっと役者にインタビューし、舞台や楽屋を観察し、ノートをとらなければならないだろう。
しかし、どちらもバランスよく両立させるなどということは、物理的にも精神的にも無理だった。
大衆演劇の芝居には台本がない。口立て稽古といって、口頭での簡単な稽古が前日にあるだけである。しかも、出しものは日替わり。初心者の私には、毎日のように稽古が続く。写真を撮影したり、インタビューしたりする時間はだんだん少なくってくる。いや、そもそも、舞台に立つ南條まさきを客席から鵜飼正樹が観察するということ自体、不可能なことなのである。
こうして南條まさきが私の中でなし崩し的に大きくなっていった。いやおうなしに、どんどんどんどん劇団へと自分が巻き込まれていくのである。私にまかされる仕事量が増加していく。おとうと弟子ができる。芝居で重要な役が回ってくる。失敗すれば怒られる。くやしい。たまにうまくできればほめられる。うれしい。お客さんから拍手をもらう。はげみになる。1人で鏡に向かっては表情やしぐさを研究し、自分なりに演技をいろいろ工夫してみたりもした。
やっとたどり着いた10年後の出版
ある朝、突然若い2人の男女の役者がドロンする(姿を消す)という事件が起きた。駆け落ちである。彼らのしていた仕事を急に私が担当せざるをえなくなるというかたちで、そのしわ寄せはもろに私にきた。芝居がはねた後に声をかけられて遊びに行ったおっさんのアパートで、いきなりジーンズのフアスナーの中に手をつっこまれ、恐怖のあまり逃げ帰ったこともあった。10日間、私をめあてに劇場に通ってきた女の子のファンもできた。
こういう状態になってしまうと、写真撮影やインタビューといった通常のフィールドワークをやっている余裕はもはやない。むしろ、フィールドワーカーという役割を演じることにのみこだわっていては、見えるものは限られてくる。客席から観察する鵜飼正樹の目を犠牲にしても、舞台に立つ南條まさきの目を優先しよう、そう開き直った。
ただ、自分が役者・南條まさきとしてどのように扱われ、何を覚え、どうふるまい、どう感じたのか、それを、1日の就寝前にメモすることだけは継続した。それをやめてしまうのは、フィールドワーカーの任務放棄だと思ったからである。
毎日舞台に立つのは、きつい反面、たしかに楽しいことだった。しかし、フィールドワークはいつかは終わる。南條まさきから鵜飼正樹に戻らなければならないときがやがて来る。1年という約束期間はあっという間にすぎ、それからさらに2カ月、つごう1年2カ月、私は大衆演劇の舞台に立ち続けた。その間に出演した芝居は100種類以上、休日はほとんどなく、1日2本の芝居を昼夜2回上演することもあったから、のべにすると800本近くの芝居に出演したことになる。
劇団から帰って間もないころ、私にはいくらでも論文が量産できるという自信があった。が、次第に論文が書けなくなる。1年2カ月の経験の密度の濃さに比べると、論文として生み出されることばはあまりにも貧しく感じられたからである。そして、ようやく94年、フィールドワークから10年以上して、『大衆演劇への旅』(未来社)という本を出版した。
それは、フィールドワークの間かかさずつけていたメモにもとづき、時間の流れに沿って、「ぼく」を主語とした日記体でつづった作品である。それに、頭注という形で、現在の「私」がコメントしたり、大衆演劇界の用語を解説したり、写真を入れたりする構成をとった。フィールドでの1年2カ月という時間の流れを再現する一方で、そこに10年という時間の経過ももりこみたかったからである。また、あとがきでは、私なりのフィールドワーク論を展開した。さらに、巻末には図表、1年2カ月問の出演記録も収録した。それによって、二つ以上の水準の記述が共鳴しあうような作品をめざしたが、それが成功しているかどうかは読者にゆだねたい。
「ともかく書くこと」で完結する
『大衆演劇への旅』には、著名な社会学者の名前が出てくるわけでも、華麗な理論が展開されているわけでもない。むしろ、社会学っぽいところなどどこにもないではないか、と思う人もいることだろう。だが、そういう文体こそが自分のフィールドワークを描くのにもっともふさわしいと私は判断したのである。
逆にいえば、そういう文体を見いだすのに10年かかった。もっと正確にいえば、そういう文体で書いてもよいのだとわかるまで、10年かかった。社会学のトレーニングを受けた人間の記述には、社会学のにおいがどうしてもつきまとうにちがいない。だから無理して社会学しなくたってかまわない、書けばいいのだ。こう思えるようになった。これはちょっとずるいことかもわからないけれど。だが、それより大切なことは、ともかくも書くということ思う。いくらすばらしいフィールドワークをしても、それが活字にならないかぎりは、そのフィールドワークは行われなかったにひとしい。フィールドワークは、その成果が被調査者や研究者、あるいは一般読者など、多くの人の目にふれて初めて完結するのだ。『大衆演劇への旅』では、登場する劇団関係者は、「芸名」のレベルではあるが、仮名にはなっていない。また、けっして劇団にとってよいことばかりが書かれているわけではない。プライバシーにふみこんだ記述もある。
そのことにかんしては、「きれいごとばっかり書いてもしゃあない。それより、まさきの目で見たことを正直に書け」と、座長にいちおう了解してもらっていたのだが、できあがった本にたいしては、「これはやっぱりお客さんには売れんな」といわれてしまった。最初は劇場で本を売ってがっぽり印税をかせごうという相談もあったのに、である。その点では、調査倫理にもとるのではという批判もあるだろうし、それはあえて受けるしかない。
けれども、それでも書けなかった、書かなかったことはたくさんあるわけで、書けることをぎりぎりのところまで書くというのが私にとっては最善の選択だ。義務だと私は思ったのである。ここまでは書いてよい、ここからは書いてはいけないという一般的なマニュアルがあるわけはない。また、匿名にすれば何を書いてもよいというものでもなかろう。最初から遠慮してあたりさわりのないものを書くよりは、ものを書くプロとして、どこまで書けるか、どこまで妥協できるか、それをきっちり自分でひきうけるべきではないか。1年2カ月のフィールドワークを終えて20年以上たった現在でも、私は2、3カ月に一度は劇団に遊びに行き、舞台に立つ。また、自分自身で大道芸を演じたり、大衆演劇をベースにした女剣劇を演じる学生の劇団を指導したりもしている。こういった活動は、私なりの、フィールドワークの成果の発表であり、今後も続けていきたいと考えている。それらが社会学の研究業績とみなされるかどうかはさておこう。フィールドワークという他者との関係のあり方はそれぞれのフィールドワークにふさわしい表現を必要としている、それを探すのがフィールドから帰ったフィールドワーカーのつとめだろう、そのためにもっといろいろな表現が試みられていいのではないかと思うからである。
一点突破全面展開という戦法
フィールドワークといういとなみは、けっしてオシャレでカッコいいものではない。また、それがそのまま現代思想だとか現代日本のはらむ諸問題の解明につながることも少ない。しかし、フィールドを掘り下げていけばいくほど、きわめて狭く小さいその穴が、たいへん大きな鉱脈へとつながっていることが見えてくる。たとえば、大衆演劇というごく狭い世界をいと口として、高齢化社会や非定着的ライフスタイル・口承文化、都市、家族、労働などの問題を論じることもできるし、フィールドワークを行い、それを本にまとめるということそのものが、調査論や記述論の問い直しにつながる。フィールドワークによってうがたれる穴は狭く小さくとも、私たちはそこから世界を見ることができるのだ。
そういう点で、フィルドワークは、いわば一点突破全面展開という戦法だ。だからこそフィールドとの出会い、フィールドでの出会いは、いくら大切にしても大切にしすぎることはない、と思う。もちろん、フィールドワークは、先鋭な問題意識にもとづく慎重な予備調査のうえで行うに越したことはない。しかし、たとえば私自身のように、たまたまそこにいた、たまたまそうなってしまった、そういう場合も少なくないだろう。また、いったんフィールドワークを開始したら、当初の予定が大幅に狂ってくるのも普通のことである。むしろ、フィールドワークに必要なのは、出発点はどうあれ、そのフィールドを選んだことが自分にとって必然的なものと感じられるまで徹底的につきあう心がまえではないか。
目先の流行に左右されず、じっくりと腰をすえ、気長につきあったフィールドワークの成果が、さまざまな形で公表され、積み重ねられていくことを期待したい。
鵜飼正樹,2004,「大衆演劇——ひょんな役者体験的フィールド調査」『社会学がわかる。新版』朝日新聞社,85-9.
鵜飼正樹,1994,『大衆演劇への旅――南條まさきの一年二ヵ月』未來社.https://dl.ndl.go.jp/pid/13209358(国会図書館デジタルコレクションの送信サービスでで閲覧可能)