「方法」と「知見」の不可分性(Emerson et al. 1995=1998: 44-6)

 他者の日常生活に参加しそれについて分析する際のスタンスのあり方はフィールドワークの本質的な部分を構成している。このような意味での「方法」は、フィールドワーカーが見、体験し、学ぶ内容を規定していくものである。しかし、もし内容(「データ」「知見」「事実」)が使用した方法の産物だとしたら、内容は方法と切り離しては考えられないことになる。つまり、フィールドワーカーが何を見いだすかは、彼がどのようにしてそれを見いだすかということと不可分に結びついているのである。したがって、このような意味での方法は無視すべきではなく、むしろ、フィールドノーツの中の重要な部分として記録にとどめておくべきなのである。つまり、自分自身の活動、その状況、そして感情的な反応を記録にとどめるべきなのである。というのも、これらの要素は、他者の生活を観察し記録するプロセスのあり方を規定するからである。

 このような立場からすれば、フィールドノーツ的「データ」を一方におき、「個人的な反応」あるいは「フィールドノーツの記録」に対する「日記」あるいは「日誌」を他方において両者を明確に区別するような考え方(Sanjek 1990c)は、それ自体が、重大な誤解を招きかねないものであると言える。もちろん、自分の発言や行動と自分が観察した他者の発言や行動とを明確に区別し、後者に対する前者の影響が全くないものとして区別して扱うこともできる。しかし、そのような区別をしてしまうと、フィールドワークの研究プロセスおよびその「データ」の意味を、幾つか重要な点で歪めてしまうことになる。まず第1に、このような区別をする場合は、データは「客観的な情報」として、すなわち誰がどのようにして入手し確認した情報なのかという問題とは独立に固定した意味をもつものとして取り扱われることになる。このような見解からすれば、「個人的な」感情や反応をも含むフィールドワーカー自身の行為は、他者が関与している出来事や事件とは独立であり無関係であると見なされる。この場合、他者が関与している事柄の方は、フィールドノーツには「知見」や「観察」として記録される。第2に、この種の区別にとって前提となっているのは、「主観的な」反応や知覚は、「客観的」で冷静な記録と切り離されることによってコントロールできるし、またそうすべきだという仮定である。そして最後に、そのようなコントロールはフィールドワークにおいて必須の条件であるとされるのだが、それは、個人的で感情的な体験というのは無価値なものであり、その場における重要なプロセスについての洞察を導くというよりは客観的なデータを「汚染するもの」であると考えられているからである。

 フィールドノーツにおける記述方法と記述内容を不可分のものとして考えることには、いくつかの利点がある。まず、そう考えることによって、「知見」は絶対的で不変なものではなく、フィールドワーカーがそれを「発見」する際の状況に依存するものだという点についての認識が深まる。さらにまた、何が起こったのか、あるいは、何が大切な問題であるのかという点に関する1人の人間の見解を「完全なもの」ないし「正しいもの」であると安易に解釈してしまうことを回避したり、少なくともそれに対して用心深くなることができる。「何が起こったのか」というのは、実はむしろ、特定の人物がある特定の他者に対して、特定の時間と場所において特定の目的のために構成した説明の仕方なのである。以上の全ての点からして、方法と内容を不可分のものとして考えることによって、研究の対象者となる人々にとって現実というものは多元的で状況依存的な性格をもつものであるという点について十分に配慮しながらフィールドワークがおこなえるようになる。

Emerson, Robert M., Rachel I. Fretz, Linda L. Shaw, 1995, Writing ethnographic fieldnotes, Chicago: University of Chicago Press. (佐藤郁哉・好井裕明・山田富秋訳,1998,『方法としてのフィールドノート——現地取材から物語作成まで』新曜社.) pp.44-6