暴走族の交友関係とパーソナリティ(佐藤 1984)

 暴走族の中核メンバーとなるような青年たちの多くにとって様々な意味で最も重要なのは、家庭・学校・職場における社会関係ではなく、同じ年頃の仲間との交友関係である。家庭や職場の義務から比較的自由であり、さしあたって進学や自分で生計をたてていける仕事につくという問題もさし迫った問題ではない彼らは、ありあまるヒマな時間をもつ。また、社会全体が豊かになり、未熟練で若年の労働者でも比較的高い給与が得られる現在では、まだ家族を扶養する義務のない彼らのような若者は、かなりの自分の自由になる金を持つことができる(親からもらう小づかいも、相当の金額にのぼる)。……彼らは、そのヒマと金の大半を仲間との社交に費やす。そのような若者たちの間の社交に単車やクルマが重要な位置を占める場合、暴走族グループの発生のために必要なほとんどの条件が揃ったことになる。

 現在では、クルマや単車は比較的容易に手に入れることができる。ローンを使う場合には、頭金さえ払えば、その日から乗りまわすことができる。先輩や友人から安く譲ってもらうこともある。中学、高校時代からの友人、あるいは職場仲間など一緒に遊んでいる仲間のほとんどが自分のクルマや単車を持っている場合、クルマや単車は欠くことのできない社交の道具となる。クルマや単車は、ただ単に移動の手段(=足)であるだけでなく、数限りない話題を提供してくれる。また、職場や学校の異なる青年たちにとっては、クルマや単車にまつわる話題は、数少ない共通の話題である。異性とつきあううえでも、クルマや単車(特にクルマ)は、重要な役割を果たす。比較的永続的な関係をもっている異性とのつきあいについてもそれはいえるが、盛り場で見知らぬ異性に声をかけて一緒にドライブしたり、それ以上のアバンチュール(冒険)を楽しむにはなくてはならぬ道具である。

 また、暴走族の青年に限らず多くの青年にとって、自分の所有する単車やクルマは自分の男性性を表現・確認し、自尊心を支えるうえで重要な象徴的意味をもつ。それは、使用する機械としてのクルマや単車のもつ機能性が象徴する、挑戦や冒険と結びついた男(侠)らしさのイメージだけでなく、消費の対象としてのクルマ・単車のもつ(マスメディアによって増幅された)男性性のイメージであり、また、改造を通して演出される個性のイメージでもある。


佐藤郁哉,1984,『暴走族のエスノグラフィー——モードの叛乱と文化の呪縛』新曜社.pp.226-7