暴走族のエスノグラフィー 脚本家-演者-観客関係(佐藤 1984)

 時間の経過は、自分自身の過去の行為や自分が関与した出來事と、それを思い返し、ドラマⅢの観客として眺める現在の自分との間にほどよい距離をくれる。その最中には、恐ろしく胸がつぶれるような思いをした体験も、後から思い返すときには、懐しい思い出ともなるし、そのときの自分の周章狼狽が滑稽に思えてもくる。

“……ほんま、オレ、あのときはコワかったなあ、オレ。(一同、爆笑)10人やったらまだええけど、5人、10人やったら、まだ構へんけど。もう、20人、30人に、グルッと周り囲まれて、ガァーツともう、壁際に押されて、後ろへ、あと一歩も引けへん状態や。んで、あの、後ろがへイやってんね。確か。……まあ、イワされた〔殴られた〕とかそういうのは、ほんまに、あとから、……あとからは、笑いの種なるな”

 あとから思い返して十分に印象深く、ドラマチックであるためには日常的で平穏な生活とはかけ離れたものでなければならない。しかし、そのような出来事を体験している最中は、体験が生々しすぎ、自分と出来事の間の距離が近すぎて、それをうまく対象化できない。また、反対に、ドラマチックな出来事であっても、それが、まったく見も知らぬ他人の身に起きたことであれば、自分と出来事の間が遠くかけ離れていて、面白くもおかしくもない。時間が経過し、適当な距離ができ、しかも、その出来事の思い出を共有している仲間と、それを対象化して劇のような話として再構成できるようになったとはじめ面白くもあり、しかも安心して楽しめる「思い出」の物語ができあがるのである。

 行為や体験の迫真性、生々しさを対象化し、相対化して構成されるドラマⅢ、その行為の倫理性をも相対化する。演者であったときには、「不良」であり、悪役でもあったかもしれないが、それは、過去の自作自演のドラマを観客として眺める現在の自分とは極めて異質な「過去の自分」である。「ヤンチャ」ゃ「非行」を行っていた過去の自分と現在の自分の間には、道徳性という点で一つの不連続点がある。「ヤンチャ」や「非行」は、青春のエネルギー、あるいは「若さ」という、理屈では割りきれないデモーニッシュなかが自分をつき動かした結果なのである。また-当時の自分の幼さのせいでもある。当時は、カッコいいともシブいとも思っていたヤンキー(ツッパリ)ファッションも、今その写真をみると、「イチビって〔イキがって、ふざけて〕」いたとしか思えない。同じように、当時自分が行った非行も、是非もない子供がやったイタズラ(=「ヤンチャ」)にしかすぎないのである。


佐藤郁哉,1984,『暴走族のエスノグラフィー——モードの叛乱と文化の呪縛』新曜社.pp.259-62