先輩後輩の上下関係と建設会社の雇用関係(打越 2019)

 しーじゃ〔先輩〕とうっとぅ〔後輩〕という上下関係には、時に暴力を伴うほど厳しいものがあった。それはT地区だけでなく、他の地域でも見られるものだったし、中学を卒業してからも続いた。下積み時代を経て後輩たちは、しーじゃとなっていき、自分たちがされたことをする側に回る。少なくとも、2007年に調査をした段階では、こうした継承がなされていた。

 その頃、地元の中学を卒業したうっとぅたちは、しーじゃたちのいる建設会社で働くのが当たり前となっていた。建設業における職種は土木、型枠大工、鳶、左官、鉄筋と多様だが、どの職種にするかは、うっとぅの適性ではなく、しーじゃがどこで働いているかで、ほぼ自動的に決まっていた。仕事はどれも体力的にハードで、10代の頃はなかなか長続きせず、何度も現場を逃げ出したり、キセツに行ったりする。無職になることも珍しくない。しーじゃにとって、地元の無職のうっとぅは、遊びにも仕事にも気軽に誘える都合のいい存在だった。(略)

 しーじゃからすると、地元のうっとぅは使いやすい働き手であった。建設現場だけでなく、平日の深夜や週末のプライベートな時間でも、さまざまな雑用を引き受けさせられるのが、地元のうっとぅという存在だった。なかでも、無職であったり、職業がなかなか定まらないような地元のうっとぅは、しーじゃたちによって地元社会の中に囲い込まれていた。

 10代の頃にしーじゃの雑用係をすることは、地元社会では特別なことではなく、多くのしーじゃが経験してきた道だった。うっとぅにしても、下積み時代における雑用係は当然のこととして受け入れてきた。その過程でうっとぅは地元での人間関係を拡げ、建設業で必要な仕事のスキルを身につける。しかし、それは地元に縛り付けられることでもあった。しーじゃから呼び出しがあればいつでも動けるよう、常にうっとぅは地元周辺で過ごすようになっていく。

 4、5年勤めても賃金はそれほど上がらないのに、技術を身につけた中堅従業員が建設会社を辞めないのは、新たに入っくるうっとぅを、年長世代と同じように自分たちも従わせることができるという見通しが持てたからでもあった。普段の仕事も生活も、うっとぅに面倒をみてもらうようになると、転職も他地域への移動も、そう簡単にはできなくなる。

 このように、しーじゃとうっとぅの関係は、沖縄の下層の若者たちの生活と仕事の基盤をなすものである。それは生活全体を貫き、支配的で、暴力を含む過酷なものだが、彼らの主たる就職先である建設会社にとっても都合のいいものであった。地元の中学を卒業した少年らを建設会社が雇い入れることで、中学時代に形作られた。しーじゃとうっとぅの上下関係が、そのまま持ち込まれる。それによって経営者は、従業員同士の安定的な関係を得ることができたし、現場で必要なスキルの多くが、この上下関係をもとに継承されていた。建設業でのこうした上下関係は、世代交代が進むなかでも維持されてきたのであった。

 ところがここ10年ほどで、沖組とその従業員を取り巻く環境は大きく変わった。1993年以降、沖縄の建設業では受注規模の縮小が続いている。こうしたなか。建設会社や従業員の数は微増している。建設現場では人が足りており、中堅からベテランの従業員で十分に仕事がこなせる状態にあるので、新人を育てる必要がなくなってきた。こうした状況がもう10年以上は続いていて、今では多くの現場で10代、20代の従業員が長続きせず、辞めていく。

 受注が減っているため、中学を卒業したばかりの10代も、仕事のない20代も、必ずしも地元の建設会社に雇ってもらえるとは限らなくなった。建設会社からすれば、仕事のできない10代よりも、中堅社員のほうが優先順位は高い。建設現場では今も昔も、10代の若者に対しては厳しく対応するが、かつてであれば20代の従業員がそのフォローをしていた。ところがいまや、20代の従業員も激減している。いまの10代の若者は、10年前と比べて格段に現場に定着しにくい状況にある。  これが、経営者と従業員、先輩と後輩がともに地元社会を生きるなかで作り上げた沖組という建設会社の、ここ10年の歩みである。


打越正行,2019,『ヤンキーと地元——解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』筑摩書房.pp.148-51