共感を表明することの危うさ(石川 2014)

 インタビューをどのように行なえばいいのか、インタビューによって何が明らかになるのか、ということのほかに、もう一つ悩まされてきたことがある。それは、どのように当事者との距離をとればよいのか、ということだ。どのフィールドでも調査協力者との関係の築き方は大変重要なテーマであるが、「ひきこもり」に関しては当事者と非当事者との境界線の曖昧さが、いっそう問題を複雑にさせているように感じる。しかも、私個人に関して言えば当事者との年齢も比較的近く(私が出会ってきた当事者の多くは1960年代半ば〜1980年代前半生まれで、その中でも1970年代生まれが大半を占める)、それだけに距離のとり方に難しさを感じてきた。そもそも私が「ひきこもり」に関心を持ったのは、そこに自分の抱えている生きづらさに通じる何かを直感的に見出したからだった。言ってみれば、当事者への共感が研究の出発点にあったのである。そのためフィールドに通い始めた当初、私は研究者というよりはむしろ、人生に思い悩む若者の一人として自己呈示しようとしていた。現に引きこもったことがあるわけではないので、さすがに当事者を名乗ることは憚られたが、それでも当事者により近い位置に立とうとしたのである。正直に言えば、ここには研究目的であることを前面に出すよりも、そのような位置に立っておいたほうがフィールドに受け入れられやすいだろうという打算もあった。しかし、そんな浅はかな考えは見透かされていたのだろう。当事者からの反発に何度か出くわすうちに、私はこうしたポジションから遠のいていった。

 以下のエピソ—ドは既に別の論考で紹介したことがあるが(石川 2005)、当事者との関係性について多くを考えさせてくれるものなので再掲したい。

 「ひきこもり」に関わるようになって2年ほど経った頃、ある集まりに参加していたとき次のようなやりとりがあった。ある当事者から「そろそろアルバイトくらい始めないとまずいと思っている」と話しかけられて「大学院生も先が見えないから頑張らなきゃいけないんですよ」と答えたところ、「でも、石川さんには身分があるでしょう?」と切り返されてしまった。あからさまに反発されたわけではないものの、私(当事者)とあなた(非当事者)を一緒にしないでほしいという強烈なメッセージが伝わってきた。

 付け加えて言えば、私自身も似たような反感を、講演会や研修などで講師として招かれた臨床家や学識者などに対して抱いたことがあった。そういう人たちは決まって「私も人付き合いが苦手で……」といった前置きをするのだが、そのことに何かいやらしさのようなものを感じた。彼/女らには”立派な”「身分」があるにもかかわらず、そこには触れずに当事者との類似点を強調することで、「ひきこもり」に関わるための免罪符を得ようとしているように思えたのである。だが、それは翻って同じようないやらしさが自分自身の中にもあったことを私に気づかせた(石川 2005)。

 こうしたことから、私はかなり意識的に当事者との同質性をアピールするような発言を控えるようになったが、それと同時にあるジレンマを抱え込むことにもなった。引きこもったことによって生じる様々な苦悩や不利益を経験していないという点では、もちろん自分と当事者を一緒にすることはできない。しかし、先行きの見えなさからくる不安、同級生に馴染めず感じていた疎外感、他人の評価を気にして思うとおり振舞えない窮屈さ等々、共感できることも少なくなかつた。非当事者の立場に留まろうとすることで、確かに自分の中にもある当事者性(ここでは当事者との共通性)と、一体どう折り合いをつければよいのか分からなくなってしまったのである。先ほど紹介したエピソードの中の私の発言は、こうしたジレンマから出たものでもあった。ただし、当事者に対して共感を表明することが、常に批判や非難に晒されるわけではない。そのことが、ひたすらに自らを貶め、世間からの責めを一身に受けてきた当事者のエンパワメントにつながることもある。そのため、当事者性を押し隠し、あくまで非当事者であることを強調する私の振舞いは、時に疑問を投げかけられもする。ある当事者から「石川さんは、絶対に自分たち(当事者)とは違う、こちら側には来たくないと思っているでしょう」と言われ、少なからずショックを受けたこともあった。おそらく当事者たちは非当事者からの共感自体を嫌がっているわけではないのだろう。共感が行き過ぎて当事者に同化しようとする振舞いになっていたり、あるいは「そういう悩みは私にもあるし、誰もが多かれ少なかれ持っているものだ」といったように、自らの経験を一般化されたりすることが耐え難いのではないか。なぜなら、それはつまるところ当人の心情や経験を軽んじていることになるからだ。

 こうして考えてみると、共感とは単に相手への同意によって生じるだけではなく、相手の経験に共通・類似する何かを自分自身に見出し、それに照らして相手のことを理解したと思ったときに生じるものと捉えられる。もっと言ってしまえば、実際のところ自分自身の経験と相手のそれとが、どれだけ一致しているのか確かめることなく「分かったつもり」になること、これが共感することの一面ではないだろうか。もちろん、自然と生まれる相手への共感そのものが悪いわけではないし、それを抑圧するべきだとは思わない。しかし、インタビュ—の根本的な目的が他者の経験を理解することにあるとするならば、調査協力者への安易な(あるいは過剰な)共感は、その目的を妨げることがあるのではないだろうか。このことに留意する必要がある。さて、自分には引きこもったことのある人々の経験が分かるはずだと思って研究を行なっている時期が長かった、と第1節で述べた。それは当事者への共感をベースに研究に臨んでいたからこそ出てきた思い込みだったのだが、実を言えば、私の中にはどうしても拭い去れない苛立ちや違和感があった。しかし、当事者に対する批判的態度が表面化すれば、フィールドから排除されることになりかねない。そのため、私はそうした感情を何とか押し殺さねばならないと焦っていた。だが、当事者への共感にこだわることが、かえって彼/女らの困難の所在を見えなくさせていることが徐々に明らかになってきた。


石川良子,2014,「『分からないことが分かる』ということ——調査協力者への共感をめぐって」斎藤清二・山田富秋・本山方子編『インタビューという実践』新曜社,41-62.pp.48-51