「ラポール」という疑似関係(桜井 2002)

適切なラポール

「あなたの人生について語ってください」

 あらためて文字にすると、おそろしく不遜で傲慢に思える依頼の言葉。その表現にいくらかの違いがあるにせよライフストーリー・インタビューをとおしてインタビュアーが聞こうとしているのはこの言葉に応答するなにものかである。社会調査、医療、カウンセリング、取材、啓発などの場面で、私たちは人びとから語りを引き出そうとする。そのため、フィールドへ出かけたり専門的な場を設定したりして、そこで出会った人びとの語りを聞くためのさまざまな工夫を試みる。なかでも、社会調査やエスノグラフィ調査では、調査者が被調査者とのあいだに築きあげなければならない関係を象徴する言葉として、これまで「ラポール」が強調されてきた。

 『新社会学辞典』の用語解説で、「ラポール」は次のように説明されている。

 面接調査を行う場合、調査が客観的であることは重要だが、それをあまり強く意識しすぎて機械的に接し、相手に嫌がられたり、相手が非協力的になってしまうと、得られた結果は逆に客観性をもたなくなるおそれがある。したがって、正確なデータを収集するためには、調査員と被調査者との間に一定の友好な関係を成立させ、調査を円滑に行うことが必要になる。両者の間に結ばれるこの友好的な関係をラポールとよぶ。(森岡ほか 1993)

 「客観的」で、「正確な」データを被調査者から聞き出すためには、相手が嫌がったり非協力的にならないように「一定の友好な関係」を築く必要がある、という。データについての「客観的」とか「正確な」という形容も、「一定の友好な関係」と関連しており、それはラポールを築けないと正確なデータを得ることができないことを意味するだけでなく、オーバーラポールといわれる過度な親密さや同一化も不正確なデータをもたらしたり調査者の客観性を失わせたりすることを含意している。人類学者のL. ラングネスらも、「人類学のフィールドワークとライフヒストリーをとることの成功の鍵は、ラポールにある」(ラングネスほか 1993: 52)と断言する。そのうえで、「非常によいラポール」とは、「ある程度の親密さ」のことであって、当事者の社会にとけ込み当事者の視点をi分のものにする「過度な親密さ」のことではないことに注意を喚起している。

 フィールドワーカーは、調査対象者と過度に親密になって、同一化してしまってはいけない。そうなってしまうと、内容はどのようなものであろうと、人類学的研究から、客観性がまったく奪われてしまうことになるのが、人類学の自明の理である。

 友好的に、だがあまりに友好的になりすぎないようにbe friendly but not too friendly’というのがインタビューの基本のようだ。調査者はインフォーマントと友だちづきあいをして彼/彼女の生活に関与しつつ理解を深めながらも、記録し分析する作業をとおして一歩距離をおいたスタンスをとらなければならないのである。この「一歩距離をおいた関与」「客観性を失わないラポール」(佐藤 1992)は、なによりも信頼できるデータを得るために、すなわち、真の(本音の)語りを聞くために調査者に必要なスタンスとされてきたのである。

「似田貝-中野論争」

 この「適切な」ラポールの考え方が、社会調査の方法論上の疑問にさらされたのは、70年代半ばの住民運動のフィールドで似田貝香門が行った主張においてである。この「似田貝-中野論争」(両者の間に「論争」とよべるほどのやりとりが行われたわけではなく、通称である)は、調査者と被調査者の関係をテーマとする論議の先鞭をつけた。

 似田貝は、「社会調査の曲がり角」(1974)で調査遂行上の困難を要約している。「第一に、住民運動参加者の、研究所や研究者に対するかなり強い不信感。第二に、研究者や調査主体の、〈issue〉へのかかわり方の、執拗なまでの問い。第三に、住民運動参加者の、研究者や調査者への情報・知識の要求」。調査者への不信と疑念は、調査技法によるラポール関係や客観的調査を行おうとする「調査主体の客体へのみせかけの人間関係(調査者—被調査者関係)」にあることを指摘する。その背景には、調査者の住民側のリアリティへの関心の薄さや研究者の客観性に対する執着への住民の「いらだち」がある。こうした状況は、「研究者が自己を大衆や住民の一員であることを感じることなしに、客体としての大衆を論じることの出来た、近代社会科学の『幸福な時代』の終焉」を物語っているとして、似田貝は「従来のように、外からの観察や調査でなく、自己が運動者との日常的交渉を常にもつことが必要」なこと、専門の研究者と運動参加者との「知識の共有と相互理解」を進めることを説く。ここで従来の「ラポール関係」に代わって、調査者と被調査者の〈共同行為〉という調査方法論上の新しい課題が浮上した。新しい社会状況が、新しい調査者—被調査者関係を要請したのである。

 似田貝の主張に対し、中野卓は自らのフィールドワークの体験から、これまででも「みせかけの人間関係」によってすぐれた成果をあげた調査はないとして、むしろ現時点であえて〈共同行為〉とよぶ安易な提案に疑問を呈している。中野は、似田貝の指摘をある意味で社会学的調査では「当然のこと、なぜ今頃」と受け止めているふしがある。つまり、彼は「適切なラポール」といった「みせかけの関係」で、これまでの調査が行われてきたわけではない、ありえたとすればその調査技法こそが間違っているのだといいたいのだ。その上で、彼は自らの社会学的調査論の考え方を開陳する。

 研究者の役割関係を軸としてのみ人間としての調査者—被調査者の生活のふれあいがあり、そこにたがいに教えあうことも協力することも可能となる。迎合はかえって対手を軽蔑した態度のあらわれであろう。異質性の認識こそが異なる間の協力のための根底となろう。その上でなくては信頼など生まれようがない。信頼なしに期待はなされず、期待できない相手に本当のことを教えたり、本音を吐いたりするものでないのは、人間同士のつきあいでは当然のことである。人間同士のつきあいなしに人間が人間を調査対象にすることなどできなかったし、これからもできないだろう。(中野 1975: 30)

 役割関係という異質性の認識が生活のふれあいとなり、信頼を生みだす。中野は、師の有賀喜左右衛門から調査者は被調査者から「教わる」のだという見方を学んだ。したがって、フィールドワークを「調査者と被調査者が出逢って、調査者は問いを発し、教わり、被調査者は、問いをうけとめ、教えながら自らもまた認識をあらたにするというような人間どうしの相互作用」(中野 1975: 29)と考えた。中野の批判は、似田貝がこだわった研究者の「専門性」に対してであった。専門的知識を住民が求めているとする似田貝は、知識の優位性を〈共同行為〉の前提に考えているようだ。これは中野の「教え」「教わる」「人間どうしの相互作用」とは距離のある見方である。中野の批判は、その点にあった。

 しかし、ここで注目したいのは、両者の意見の違いよりもその共通性についてである。彼らはともに、社会調査法の専門書や教科書に書かれたラポール論に対する違和感を表明している。にもかかわらず、調査者—被調査者関係と情報の質という点では、従来のラポール論とも共通しているのである。〈共同行為〉が「〈確実な〉知識の積みかさね」になるにせよ、「みせかけ」ではない「人間同士のつきあい」が〈本音〉や〈信頼できる情報〉を得ることになるにせよ、いずれも調査者—被調査者関係のあり方が情報の質を決定するという点ではおなじ認識を表明しているからである。むしろ新しい論点は、両者が「みせかけの人間関係」という言葉によってわずかに示唆した倫理観にこそあった。


桜井厚,2002,『インタビューの社会学——ライフストーリーの聞き方』せりか書房.pp.63-7