桜井厚『境界文化のライフストーリー』
「人びとが自らの生活史をふり返りながら、過去の自己と周りの世界についての経験をインタビュアーに語る。その意味では、人びとはライフストーリーが生みだされる源泉となる生活史経験をもち、その経験をもとに自らの周りの社会や歴史に対する見方を再編成してストーリーを構築する、といってよい。しかし、同時に、人びとは語ることによって自らの経験を構築し、生活史経験といわれるものを再編成するのだ。しかも、そのインタビューの場は、人びとがなにを、いかに語るのか、というかれら固有のメソッドを駆使する場である。語りはインタビュアーの直接的な質問や応答を介した対話によって生成するから、語り手の〈過去〉の経験の物語といえどもインタビューの〈現在〉の場に拘束されて、相互的に構築されるものなのである。かくして、人びとの社会観や歴史観は、こうした語りの日々の実践をとおして構築され、維持されているのだと考えられる」(桜井 2005: 9)。
桜井の作品は、冒頭このような文章から始まっている。「ききとる」という営みは聞き手—語り手の相互的かつ微細な方法が駆使された実践である、という彼の見方がここに凝縮されている。もちろん、相互的な実践としてのありようを詳しく読み解いていくことだけが、「ききとる」ことの目的ではないだろう。そこで何が語られるのか。「何」の部分を明らかにする作業が第1の目的である。ただ「何」だけを取り出しておしまい、でもないわけである。「ききとる」という「いま、ここ」で、「何」が「いかに」語られるのか。「いかに」聞かれるのか。いわば「何を」「いかに」の絶えざるせめぎあいの中で、ライフストーリーが構築されているのである。
桜井は、十数年間にわたり滋賀県の被差別部落で生活文化史の聞き取り調査を行ってきた。私も何年かはこの調査に参加しており、これまで何冊かの成果が出ている(反差別国際連帯解放研究所しが編 1995; 桜井・岸編 2001など)。そして本作品はその集大成なのである。滋賀には近江文化という伝統があり、それを培ってきた庶民の生活がある。たとえば琵琶湖博物館では、こうした庶民の暮らしを肌で感じられるような展示が工夫されている。しかし、この庶民の暮らしから被差別部落の生活文化が欠けているとすれば、やはりそれは生活文化を語るうえで、きわめて不十分なものではないだろうか。「もうひとつの近江文化」あるいは「隠れて語られてこなかった生活文化」。こうした発想で桜井は聞き取りを行っていく。
また、被差別部落で暮らしてきた人々の語りに凝縮されるさまざまな“生きるための智恵”と出会うなかで、彼は「生活戦略」という発想を得ていくのである(桜井 1998)。解放運動として、正面から差別に対抗していく実践や文化がある。ただ。それだけで被差別の文化や生活ができあがっているのではない。たとえば、部落の人々が差別をやりすごし、すりぬけ、きりぬけ、差別する人や文化をからかう実践がある。厳しい生活条件の中で、少しでも糧を得て暮らしていくための多様な、優れた技術がある。この多様で豊かな、生きていくための術、智恵が、「生活するための戦略」なのである。
「部落の生活世界は、支配的文化の周縁部に位置づけられ、国家、官僚、大企業の施策や管理がおよびにくく、支配的文化に流通している制度や規範から相対的に自由な側面を多くもっていただけではない。限られた選択肢しかもたなかった人びとの生活行為は、支配的文化の規範やルールと抵触し、矛盾したり、侵犯し合うことがある独自の『生活の論理』をもっていた。人びとが語るそうした『生活の論理』を、とりあえず『境界文化』とよぶことにしよう」(桜井 2005: 29)。
そして「生活戦略」が駆使され創造されてきた被差別部落の生活世界を、より広い社会や歴史の文脈に組み込もうとする言葉が「境界文化」なのである。
被差別部落の起源はどのように伝承されているのか。ある寺に起源や由来を示す文書が残っていたとしても、それをいかに伝承していくのかは、ムラに生きる人々の、語り継ぐという実践の中で維持されたり、変貌をとげたりしていく。その多元的な語りのありようを桜井はまとめていく。
また、行政的な文書や解放運動の記録には残っていない差別事件がある。つまり文字で残っていないわけである。そうした事件の記憶を人々が語ってくれる。それは既成の解放運動や差別への抵抗だと私たちが考えてしまいがちな枠に、確実に変動を与えてくれるものでもある。当時どのように人々が事件に抵抗したのか。その抵抗と戦略の物語が語られている。
ムラで昔から行われてきた「おこない祭」というものがある。神職を担当する人の生活の規律と社会関係のありようを、桜井は聞き取る。ムラの生活状況は時代の影響を受け変貌する。そうした変化にさらされて、守られてきた伝統に少しずつ亀裂が入りながらも、共同で維持される祝祭の物語がある。たとえば、かつて男女がどのように婚姻の相手を決めていたのか。その1つに、若者たちの了解のもとで行われていた〈はしり〉という、女性を「誘拐」し奪取する物語がある。私はかつて別のムラで、「かたげ」という配偶者奪取の文化を聞き取ったことがある。夜の闇の中、事前に相談をし了承済みの女性を男性が道で待ち、「かたげて(背負って)」走り去るものである。〈はしり〉と「かたげ」の関連性についても桜井は考察している。
和靴の製造という優れた技術や文化が、被差別部落には存在する。好況期を生きた職人の世界やその後の変転と苦悩が、職人から語られる。また。そこからあふれ出る職人の魂の物語がある。そこには、牛や豚を解体し、「鳴き声」だけを残してすべて利用するという優れた食肉の文化があるのである。他方で屠場やそこで生きる人々に向けられる執拗な差別が存在する。食肉産業の変化にともなう彼らの生活の変転と苦悩の語りが満ちた。屠場という隠された世界の物語がある。
桜井は、相互行為としての聞き取りという方法的姿勢を崩すことはないが、聞き取った語りを整理し、当事者の語りがもつ意味がより鮮明になるように解説を加えていく。いわば個人の主観的な経験に根ざしながらも、その経験がもつほかの村人や生活空間との共同歴史性が語りから明らかになるように解説していくのである。聞き取りの「いま、ここ」で相手と語り合う桜井の存在がある。他方でそこで得た語りから、人々の暮らしに根ざした生活や文化の共同性、歴史性を個々の物語として取り出していこうとする。「いま、ここ」の場を超えようとする桜井の存在がある。この2つの存在の繫がり、そして緊張感が、この本を読むことで伝わってくる。『境界文化のライフストーリー』には、「ききとる」という相互行為から創造された。“部落で生きてきた人々が生み出してきた固有の意味”に満ちた物語がつまっているのである。
好井裕明,2008,「事例調査の基本をめぐって——『はいりこむ』『ききとる』『よみなおす』」新睦人・盛山和夫編『社会調査ゼミナール』有斐閣,273-309.pp.290-3