行動においては、そのどの地点で「I」が現れ、「me」と向き合うのだろうか。仮にいまあなたが社会においてある特定の立場にいるとして、自分は社会の役に立っているとか特権を持っているとの実感もあるとしよう。その場合の実感はすべて「I」との関係で定義される。その「I」は「me」ではないし、「me」になることもできない。よい自我と悪い自我を併せ持っている場合はどうだろう。この場合、そのどちらかが「I」というわけではなく、したがって「me」と向き合うこともない。どちらもが自我だからである。一方の自我を承認し、もう一方を承認しなければどうだろう。しかし、どちらを大事にするとしても、その自我が求めている承認は「me」が承認されるのと同じような承認でしかない。いずれにしても「I」がスポットライトを浴びることはないのだ。わたしたちは自分に話しかけはしても、当の自分を見たりはしない。「I」が反応行動を起こすのは、他者の態度を取り入れることによって形成された自我に対してである。他者の態度を取り入れることによって、わたしたちは「me」を自分の内部に導入し、その「me」に対してわたしたちは「I」として反応行動を起こすのである。
この問題を扱うもっとも単純な方法は記憶を例にとって説明することだろう。わたしが何か独り言を言うとする。わたしは自分が何を言ったかを覚えているし、おそらくその気持ちも覚えている。つまり、独り言を言っている瞬間の「I」は次の瞬間の「me」のなかに存在している。わたしは進行中の自分をつかまえられるほどすばやく振り返ることができない.自分が何を言ったかを覚えているというとき、すでにわたしは「me」になっている。一方、「I」に与えられているのは「me」との機能上の関係だけである。「I」のこの性格ゆえに、わたしたちは自分が何者であるかをけっして十分には知らないとも言えるし、自分の行動に自分でおどろくことがあるのもそのためである。わたしたちは行為しながら、行為している自分を意識している。そのときの「I」が記憶され、経験のなかに姿を現す。
自分の経験はほんの一瞬前までなら直接さかのぼることができるかもしれないが、その他の部分は記憶上のイメージに頼らざるをえない。そのため、「I」は記憶のなかでは一秒前、一分前、あるいは一日前の自我の代弁者として現れてくるほかはない。言うまでもなく、その代弁者とは「me」のことであり、その「me」は以前には「I」だった「me」である。だから、もし「I」が直接に入り込んでくるのが自分の経験のなかのどの地点かと問うなら、その答えは過去の人物として登場するときということになろう。いま「me」として現れている「I」が一秒前のわたしであるとしたら、いまのわたしの役を担わなくてはならないのはもうひとつの「me」である。わたしは「I」の直接的な反応を、そのさなかにつかむことはできないのだ。「I」とは、ある意味ではわたしたちがこれこそ自分だと思っているものである。ところが、経験のなかで「I」を意識することがむずかしいのだ。「I」は経験のなかに直接に与えられることがないからである。
「I」は他者の態度に対する個人の反応である。対して、「me」は個人が他者の態度として受けとめたものの集合体である。他者の態度がひとまとまりの「me」を構成し、人はその「me」に向かって「I」として反応行動を起こす。
- Mead, George Herbert, 1934, Mind, Self and Society, University of Chicago Press (山本雄二訳,2021,『精神・自我・社会』みすず書房.)pp.185-6