あらゆる個人は、出会いのなかに、個人的な生活史と一連のパーソナリティ特性をもちこむ。役割は、ある特定の状況的文脈で個人が多少しっかりと準拠すべき一般化された期待を特定する。しかしながら、すべての役割は、そこに特定の個人的なものが刻印される形で演じられる。役割は、個人が一定の自己表現の方法を用いることを許容しているのである。劇場では、役割は人「である」。俳優がその役を演じているのだとわれわれが充分に意識しているとしても、そういえる。しかし社会生活のリアルな文脈においては、ある個人が演じる役割は、1つであれその集合であれ、直ちにその人に対応するものではない。ゴフマンの仕事をめぐってしばしば立てられてきた問い——ある個人が演じる役割の多様性の背後に、自己は在るのか?——この問いには、イエスと答えられなければならない。たしかに、行為する自己についてのゴフマンの定義は、たいていどちらかといえば漠然としている。しかし、彼は、「保たれている道徳的性格…….動物的性質、等々」は、演じられる役割の多元性とは区別されなければならない、ということを充分に明確にしている。人は、さまざまな役割演技の背後に立ってそれを監督しているような、ミニ行為者のようなものではない。こうした役割演技は、主体的行為に必須のものであり、また他者への主体的行為の提示にも必須のものである。自己は、アイデンティティの意識のうちに存する。アイデンティティが、特定の役割群を超越すると同時にそれらを個人的生活史へと関係づける統合的な手段をもたらすのである。そして、自己は、動機と期待——特定の役割によって「スクリプト」を与えられた期待—の間の取り引きを管理するための処理法一式を供給するのである。
すべての役割は状況にかかわりのあるパフォーマンスとしてなされる。しかしそうしたパフォーマンスは、役割の完遂ということではないし、出会いにおいて生じる「状況役割(situated role)」と必ずしも同じものでもない。状況役割は、より包括的な役割に含まれている期待を強化するかもしれないし、または抑制するものかもしれない。このことを説明するため、ゴフマンはメリーゴーランドに乗る人の例をあげている。メリーゴーランドでは、物理的に定められた配置と、機械的に決められた「周行」が与えられる。だが、諸個人がこのような形で配列されると、そこには概して、ある型の相互行為が生じ、乗っている人々をともにある調和へと導く。共在の他の情況と同じように、そこには相互的なコミュニケーションと感情の誘発の機会が大いにある。メリーゴランドが回っている間、そこには、人々をつなく、、、、集合的興奮の気分がもたらされるだろう。子供たちにとっては、その表現方法は「期待された」振る舞いと矛盾しない。だが大人にとって、集合的興奮の気分に屈服することは問題となりうる。なぜならそれは、大人ないし親に対する通常の役割期待から外れていると思われるからである。それゆえメリーゴーランドが終わった後で、ある程度の当惑に襲われてしまうかもしれない。メリーゴーランドに乗る人は、不慣れな人ならしないような巧みさで無頓着に乗り、こんな乗り物など何でもないというさりげない外見を提示することで、この活動システムからの距離を維持するのである。
役割はたんに演じられるだけでなく、ごっことしても演じられる。ここに、子供、また舞台俳優が、他の情況であれば真面目な意図と実際の結果をともなうものとして行われることを模倣するという可能性がある。だが、両者の区別は、一見して思う以上にぼんやりしている。なぜなら、あらゆる役割は、それを演じる個人の能力についてある種の証明を要求するからである。ここに、ゴフマンの著作におけるドラマツルギーのメタファーの重要性、すなわち彼の批評家たちがしばしば主張してきたこととは逆に、ゴフマンがその限界を鋭く意識していたあのメタファーの重要性がある。役割を実演する個人は、役割をごっことして演じる個人とは同じではないし、同じではありえない。ゴフマンの役割距離の分析が大変興味深くまた鋭いのはまさにここに理由がある。役割をごっことして演じている者は役割距離を取ることがない。それが大人の状況にかかわりのある役割パフォーマンスをまねしている子供であれば、話は別であるが。役割距離は、自己と役割の分離に依存するが、アイデンティティをその役割の重大さとともに保つ手段であるといえる。それは、ある特定の役割に含まれている課題のパフォーマンスに対する最高の自信を表すやり方であるかもしれない。他者たちに対して自分がその役割に含まれる期待を完全には「受け入れ」てはいないことを示すことによって、個人は実際、その確実性に疑いを投げかけるよりもむしろ、それを確認する。こうして、手術中に雑談や冗談まで言ったりする外科医は、そうすることによって、彼/彼女の能力に関して同僚たちを安心させることができるのだ。彼/彼女は、より生真面目で剛直な振る舞い方をする外科医よりもずっと効果的に皆を安心させるだろう。
『日常生活における自己呈示』でゴフマンが焦点を当てているのは、人が真の動機を隠し、パフォーマンスが操作されるような状況、そしてそのようなパフォーマンスが慎重に上演される状況のようである。自分に対して利己的に気を配る行為者たちのシニカルな世界、外見が何よりも重要であるような、そんな世界をゴフマンは描いている、という見方は疑いなくここから来ている。それがゴフマンの後の仕事において修正されているというのは一つの見方である。パフォーマンスによって人は見栄を張ることができる。パフォーマンスは、役割期待によってある種の積極的な関係をもつことが期待されている相手に対して、無関心やあるいは嫌悪といった感情を隠す手段として用いられるだろう。しかしながら、パフォーマンスは、不誠実を隠すためと同じくらい、他者に対して純粋な動機と関与をもっていることを示すために行われる。
- Giddens, Anthony, 1987, Social Theory and Modern Sociology, Stanford, Calif.: Stanford University Press.(藤田弘夫監訳,1998,『社会理論と現代社会学』青木書店.)pp.163-6