ケアの倫理と民主主義(山本 2021)

 昨今、おもにフェミニズムの議論からケアの倫理が注目されている。この議論は厳密には20世紀末頃に、新自由主義的なイデオロギーに対抗するものとして現れたが、近年それは明確に民主主義論のかたちを取り始めている。

 ケアとは、一般的には他者への配慮や気遣いから、自分ではニーズを満たせない人への看護や介護、そして育児などを含む幅広い概念であり、他者に関心をもち、相互に依存した関係を前提にした人間関係を求めている。これは、新自由主義が押し付けてきた個人主義的、自助的なあり方を根底から批判するものである。

 乳児や高齢者、障がいや病を抱える人へのケアは、これまでおもに女性が担ってきた。そのため家父長的な社会では、こうした実践がもつ意義は見過ごされ、その担い手である女性は公的領域から排除されている。ケアの倫理はこうした状況を問題化し、ケアがもつ政治的かつ実践的な意義を明るみに出すものだ。

 この動向は、理論的には、キャロル・ギリガン『もうひとつの声』(1982)にまでさかのぼる。彼女はピアジェとコールバーグという2人の発達心理学者による男性中心主義的な発達理論を批判し、男性的な「正義による倫理」からは逸脱とみなされてきた「ケアの倫理」を析出する。このもう1つの倫理は、他者との相互依存と協働にもとづく新しい人間関係を基盤にしたものである(ブルジェール 2014)。

政 治思想の観点からすると、ケアの倫理は、リベラリズムの主体を根本から捉えなおすものだ。政治学者の岡野八代は、リベラリズムが特定の存在や活動を公的領域から排除してきたことを問題視し、フェミニズムの観点からこれを批判する。

 とりわけ、リベラリズムが想定する自律した主体像は、ケアを必要とする「依存する存在」を排除してきた。リベラルな自己は、公的領域において他者に依存することなく自由に振る舞い、社会を一から構成する個人主義的かつ契約論的な主体として構想されがちである。ケアの倫理はこうした“常識”を問いに付す。

 ケアの倫理がわたしたちに突きつけているのは、自律的な主体が存在し、自由意志において政治社会を構成するといった契約論的な社会の構想が、これまで考えられてきたように他者の包摂を可能にしているどころか、じつは、厳格に閉じられた自律的主体だけの世界を構築してきたのではないか、というラディカルな問いである。ケアの倫理は、主権的な主体の暴力的な包摂による社会の構想からいったん離れてみることを可能にしてくれる。(岡野 2012)

 同様に、哲学者のエヴァ・フェダー・キティは、リベラリズムの正義の原理を批判しながらつながりの互酬関係を「ドゥーリアの原理」と呼ぶ。ドゥーリアとは、出産し、赤ん坊をケアする女性をサポートする人を指す「ドウーラ」をもじったものである。キティが描く「公的なドゥーリアの構想」とは、ケア提供者が依存者のケアに責任をもっと同時に、社会がケア提供者のケア労働を搾取することなく、その福祉を準備するものである。

 ケアの倫理は、コロナ禍以後、ケアワーカーなどのエッセンシャル・ワークを再評価するさいにも重要な論拠になる。なかでも、家族のケアを担う18歳未満のヤングケアラーに対する支援体制作りは切実な問題だろう(澁谷2018)。キティの議論は「すべての人に公正な方法でケアを提供するのに社会全体が責任を負うような善として、ケアが公的に認められた社会」(キティ2010)を提唱する。

 ケアの倫理にもとづいた社会の構想は、リベラリズムの原理に依拠してきた自由民主主義に大きな挑戦を突きつけている。長らく、ケアは私的な問題であるとされ、公的ないし政治の問題であるとは考えられてこなかった。ジョアン・トロントはこうした従来の公私区分を批判し、社会全体でケアの責任をどのように割り当てるかが、民主政治の中心的な問題であるべきと説く。

 つまり、ケアの責任が不平等な仕方で一部の人々(女性や外国人労働者など)に集中する状況のもとでは、真に民主的な平等は実現されない。ケアを公的な概念として再解釈し、現在の民主主義をケアの責任を中心に捉えなおすことが、現代民主主義の新しい課題として提示されている(Tronto 2013,トロント 2020)。


山本圭,2021,『現代民主主義——指導者論から熟議、ポピュリズムまで』中央公論新社.pp.224-7