資本主義経済は、食事を与え、世話をし、社会的きずなを結んで深めるという相互作用を育む活動に依存している。フリーライド(ただ乗り)していると言ってもいいだろう。とはいえ、資本主義経済はそれらの活動の金銭的な価値を認めず、無償労働であるかのように扱う。資本主義の主体をかたちづくるこれらの活動は、「ケア」「情動労働」「主体化」など、さまざまな名前で呼ばれ、人間を具現化された自然的存在として維持するいっぽう、社会的存在としても構成し、活動の基盤となるハビトゥスと文化的精神とをかたちづくる。このプロセスの中心は、若い世代を産み、社会化を促すことだ。そしてまた年配者の世話や家庭の切り盛り、コミュニティの構築を図るとともに、社会的協調を支える意味の共有を促し、情緒的な性向を養い、価値体系の豊かな広がりを育む。このように範囲を拡大して理解すると、社会的再生産の労働はどの社会においても不可欠である。ところが、資本主義社会の場合、その労働はもっと特別な機能も担う。それは、労働者階級を生み出して補充し、搾取によって剰余価値を吸い上げることだ。したがって、ケア労働は資本主義システムが「生産的」と呼ぶ労働を生み出すが、ケア労働そのものは皮肉にも「非生産的」とみなされる。
もちろん、すべてではないにせよ、多くのケア労働の位置づけが、公的経済の価値蓄積の回路の外に——家庭に、地域社会に、市民社会制度に、公共機関に——あることは間違いない。たとえ有償で働いた場合でも、ほとんどが資本主義的な意味合いでの価値を生まない。だが場所に限らず、有償か無償かに限らず、社会的再生産の労働は資本主義が機能するためには不可欠である。生産的とみなされる賃金労働も、そこから引き出される剰余価値も、ケア労働なしには成り立たない。家事、子育て、学校活動、愛情のこもったケア、それらに関連するさまざまな活動、資本が必要とする、適切な質と量の労働人口を確保できるのも、社会的再生産の活動があってこそだ。資本主義社会の経済的生産にとって、社会的再生産は必須の前提条件なのだ。
だが、少なくとも産業革命以降、資本主義社会は、社会的再生産の労働を経済的生産の労働から切り離してきた。そして、社会的再生產を女性と、経済的生産を男性と結びつけ.社会的再生産の活動を、あたかもそれ自体が尊いものであるかのように、情操という漠然としたもので包んでしまった。あるいは、それがうまくいかないときには、ほんの少額を支払う。ごくわずかな額を支払えば、それで十分であるかのように。その点が、資本のために直接行なう仕事とは異なる。生産の場合、労働者は(理論上は)生活できるだけの賃金を受け取る。このような方法によって、資本主義社会は、女性が従属する現代の新たなかたちの制度基盤をつくったのだ。
かつて女性の労働は認知されていた。ところが、資本主義社会は、より大きな人間活動の世界から再生産労働を切り離した。そのため、女性の労働は新たに制度化された家庭という領域に追いやられ、社会的な重要性は曖昧になり、新たにつくり出されたフェミニティ〔女性らしさ、女性の特質〕という靄に包まれてしまった。そして、金銭が権力の第一手段となった世界において、無償ないし低賃金であることがこの問題を決定的なものにした。つまり、再生産労働に携わる者は、公的経済で剰余価値を生み出す労働に従事して生活賃金を稼ぐ者に、構造的に従属する。たとえ再生産労働が生産労働を成り立たせるために不可欠な労働であろうと、その構造は変わらない。
そういうわけで、一般的に、資本主義社会は社会的再生産を経済的生産から切り離して女性の領域とし、その重要性と価値を漠然としたものにする。ところが逆説的なことに、資本主義社会は、公的経済を社会的再生産のプロセスに依存させておきながら、その価値を否認する。この「切り離し、依存しながら、否認する」という何とも奇妙な関係こそ、不安定化の原因だ。実際、これらの4つの言葉は矛盾をはらんでいる。資本主義経済の生産は単独では成り立たず、社会的再生産に依存している。そのいっぽう、飽くなき蓄積への衝動は、資本が——そして私たちが——必要とする再生産のプロセスと能力を不安定化する恐れがあり、それはやがて資本主義経済に必要な社会的条件を周期的に危険に陥れる。
Fraser, Nancy, 2022. Cannibal Capitalism : How Our System Is Devouring Democracy, Care, and the Planet — and What We Can Do About It, London: Verso. (江口泰子訳,2023,『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』筑摩書房.)pp.104-6 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480075659/