第三章 邂逅(女同士の義理、結婚、連鎖)
3
1:青木幸一郎の婚約者が現れる時間が近づくにつれ、時岡美紀はそわそわとラウンジの入り口あたりを気にしはじめた。すでに日が陰ってきており華やかな照明が際立って、ぐっとラグシュアリーなムードだ。
2:「どんな子?」
3:美紀がたずねると、
4:「育ちのいい箱入りのお嬢さま」
5:相楽さんは一切迷うことなく、そんな紋切型の形容を口にした。
6:「あのこじゃない?」
7:美紀の目はすぐに一人の女性を捉えた。
8:金ボタンのついたネイビーコート。セミロングの髪に控えめなメイクだが、愛らしい顔立ちなのは遠目にもわかる。外資系高級ホテル特有のはったりめいた豪華さに戸惑っている様子はなく、しかしどこかナーバスそうに、ラウンジを見渡して人を探す素振りをしていた。
9:「あのこです」
10:相楽さんはこっちこっちと手を振る。
11:テーブルに近づいてくる榛原華子の、まるで大学出たての娘のような若さ、好戦的なところのないふんわりした優しい顔つきを見ると、こういうのが幸一郎の求めていた結婚相手なのかと思い、美紀は暗に落ち込んだ。共通点がないというより、ほとんど正反対だ。
12:「はじめまして」
13:華子はまず時岡美紀に向かってぺこりと頭を下げた。
14:「はじめまして、時岡です」
15:美紀はどんな顔をすればいいのかわからず、少し顔が引き攣ってしまう。
16:コートを脱いだ華子は、グレーのクルーネックカーディガンにパールのネックレスをつけていた。給仕係に差し出されたメニューを受け取るときの、さりげない会釈。注文するときの声の感じのよさ。コーヒーではなく迷わず紅茶を選ぶ嗜好。パテントレザーのバッグを背もたれの前にちょこんと置く、身についたマナーのよさ。華子の一挙手一投足が目に飛び込んできて、そのいちいちにはっとするような驚きと、それから敗北感を感じてしまうのだった。
17:華子を見ていると、否応なく慶應の内部生の女子たちのことが思い出された。育ちのよさと幅広い経験に裏打ちされた。堂々たる振る舞い。一度も酷い目になど遭ったことがないような、つるりとした顔と子供じみた瞳。その無傷な感じは、人を蹴落とそうとする気持ちなど抱く必要のない世界で生きてきた証のようだ。
18:華子の第一印象は、美紀が内部生と交流したときの数少ないデータと寸分違わぬものである。自分たちのサークルに正式に招き入れてくれることは決してないが、彼らは話してみれば優しく、嫌な気持ちにさせられたことはなかった。ただそれが逆に、美紀にしてみれば、自分たちの世界とは隔てられている見えない壁の、その圧倒的な分厚さ、高さを思わせ、いつも一方的に、かすかに傷ついてしまうのである。これは青木幸一郎と一緒にいるときにも、たびたび味わう感情だった。
19:企画立案者でありレフェリーでもある相楽さんが、双方に説明した現況をおさらいした。
20:「こちらが、青木幸一郎と婚約中の、榛原華子。で、こちらが時岡美紀さん。お正月のパーティーに、青木幸一郎と一緒に来てた方」
21:美紀と向かい合うと、華子は明らかに緊張した様子である。
22:「どうも、はじめまして」
23:声をかすかに震わせて華子から挨拶するも、美紀の目をまっすぐには見られないようだ。
24:「はじめまして」
25:美紀は軽く会釈する。
26:すでにかなり打ち解けている美紀と相楽さんのリベラルな空気に、華子の存在はどこか場違いな感じになった。紅茶が運ばれてくると、華子は沈黙をごまかすように口をつける。
27:「大丈夫?迷わなかった?」
28:相楽さんがくだけた調子で訊くと、
29:「前に来たことあるから」と華子。
30:「そうなんだ。意外。華子んちからはちょっと遠いよね、ここ。あんまり使わないかなーって」
31:相楽さんの言葉に華子はもじもじしながら、
32:「お見合いのときに一度……」
33:と小声で言い、かすかに場を凍らせた。
34:華子はいたたまれない様子で、手持ち無沙汰からかバッグの中をごそごそやると、封筒を
35:取り出し、相楽さんに「これ、母から」と言っていきなり渡した。
36:「ん?なに?」
37:「三井家の、『おひなさま展』のチケット。知り合いからもらったものなんだけど、お母さんがせっかく日本橋に行くなら見てらっしゃいよってくれたの。相楽さんにも一枚どうぞって」
38:「ああ」
39:相楽さんは興味なさげにつぶやいて、
40:「あたし、いいわ。前に一回見てるし。そんなに内容変わらないでしょ?」
41:まったく悪気なく、率直に断った。
42:「前にもやってたの?」
43:美紀がたずねると、当たり前でしょうという感じで、相楽さんも華子もうなずいた。
44:「毎年春先に、三井家が持ってる雛人形が、三井記念美術館で展示されるんです。このビルの一階から入って、隣の三井本館にあるんですけど」と相楽さん。
45:「ああ、あの神殿みたいな建物?」
46:「そうですそうです。去年は母親に誘われて行ったんですけど、どーもあたしはそこまで興味なくて。池田重子の『日本のおしゃれ展』とか、うちの母親、ほんとそういうのが好きみたいで、よくつき合わされるんですけど」
47:相楽さんは冷めたコーヒーに手をのばし、「新しいもの、もらえます?」と給仕の女性を呼び止めてメニューをもらった。
48:美紀には彼女たち二人のこういった会話が、東京を長年回遊する女性たちの間に、共通している特有の文化のように思えて新鮮だった。母親に連れられて美術館へ行き、恒例となっている展覧会のことを、必修の科目かなにかのように話題にするこの感じ。東京出身者に挟まれ、美紀は疎外感にさいなまれながら、それを悟られないように気配を消した。みんなが常識として普通に話していることに、少しだけ無理して、ついていかなくちゃいけない。それがここのしきたりなのか。作法なのかとあたりを窺いながら、薄笑いを浮かべて実感のこもらない相槌を打ち、感心したり学習したりしている。東京に来たばかりのころは、よくこんなことがあった。
49:「お雛さまか。うちは小学生までだったな、飾ってくれたの」
50:そう口にした美紀の“普通”は、彼女たちにとっては普通でなかったらしい。相楽さんが驚いたようにこう言った。
51:「そうですか?うち、いまも飾ってますよ。母がそういうの好きなんで。でもさすがに雛壇を組み立てるのは大変だから、アップライトの上に適当に並べてますけどね。あ、これ写真」
52:相楽さんが見せてくれたスマホの写真に写っていたのは、ピアノの上に敷かれた毛氈の上の台座にちょこんと座った。一対のお雛さまだ。お餅のような福々しい輪郭に、筆で線をスッと引いたような目をしている。
53:「あ、なんか変わった顔してるね」美紀が言うと、
54:「あたしが生まれたときに作ってくれたやつなんですけど、どうもおばあちゃまの趣味が炸裂してて」
55:相楽さんは困り顔でこたえた。
56:おばあちゃま……?
57:その呼び方に、突っ込んでいいのか。それともスルーすべきなのか。美紀は彼女たちの出方を窺い、その呼び方がこちら側の世界での“普通”であることを察した。
58:女雛と男雛の両脇でぼんぼりが明かりを灯し、さらにその横には付属の飾りものとは違う、生の花が見える。美紀が二本の指を使って写真を拡大させると、浅い陶製の花器に幾本もの桃の枝と菜の花が、見目よく活けられていた。
59:「この花もわざわざ飾ったの?すごい。ほんとちゃんとしてるね」
60:「うちの母、お華やってるんで、こういうの好きなんです。花はお花屋さんが毎週届けてくれるから」
61:個人宅に毎週花屋がデリバリーに来るなんてはじめて聞いたが、ここはあえてリアクションは封印して、ただ一言「へえー」と言ってみせた。
62:美紀は蚊帳の外になってしまっている華子に、「どうぞ」と言ってスマホを回した。
63:「華子の家でも飾ってるでしょ?」
64:相楽さんに訊かれ、華子はこくんとうなずく。
65:「写真ないの?華子の家のは立派そうだな」
66:華子はバッグを膝に載せると、ブランドもののスマホケースのカバーを開けて人差し指でスクロールし、相楽さんに渡した。写真は、和室に据えられた七段飾りの雛人形が、なんと三セットも横並びになっている壮観なものだった。
67:「え、なにこれっ」
68:相楽さんは首をのけぞらせて大いにウケている。
69:「どれどれ?」
70:美紀もスマホの写真を見て、「わあ……」とため息を漏らした。「うち、三姉妹だから、」
71:華子はもごもごと説明をはじめた。
72:「兼用っていうのも可哀想だからって、女の子が産まれるたびにおばあちゃまが作ってくれてたら、こうなっちゃったらしくて……」
73:「お姉さんて、もう結婚してるよね?」と相楽さん。
74:「うん。いちばん上の姉は結婚して子供もいて、二番目の姉は一度結婚して離婚して、いまは独身」
75:「お雛さまって、嫁いだあとも実家で飾るもんなの?」と美紀がたずねる。
76:「母が毎年、全部飾っちゃうんです」
77:「へぇー。面倒くさくないんだ」
78:美紀は感心しながらつぶやいた。自分の実家の暮らしは、面倒くさいという理由でありとあらゆるものが端折られていたが。冠婚葬祭をのぞき、もはや文化らしい文化はないと言ってもいいくらいだ。
79:「飾るのが好きみたいで」と華子。
80:「まさか二人とも、雛祭りとかも家の中でやってたりする?」
81:美紀は好奇心から、そんな質問を投げかけた。
82:「祭りっていうか。ちらし寿司くらいは作るかな。こんな桶で」
83:相楽さんは両手を輪つかにして寿司桶を表現する。華子もこうかぶせる。
84:「うちも、姉が来たらちらし寿司作るけど、人数集まらないときは手巻き寿司とか、あと、仕出しの手まり寿司をとったり」
85:美紀はこの二人に大いに引かれるのを承知の上で、
86:「うちはお正月とお盆以外の行事は、基本無視だったな」と告白した。
87:「クリスマスも!?」
88:華子が派手に驚いて語気を強めた。
89:「うん。プレゼントくらいはくれたけど、ツリーとかはなかったよ、一度も」
90:「ツリーがないなんて……」と華子。
91:きょとんとうなずく美紀に、相楽さんが「ミサとかは?」と質問をかぶせる。
92:「ミサってなに?あ、教会でやるやつか。ないない。教会行ったこともない」
93:華子は「信じられない……」とショックを受けた様子だ。
94:「え、そんなに?」
95:美紀は華子の動揺ぶりに、逆に驚いた。
96:「あ、気にしないでください。うちら小中高ずーっと聖書読んで育ったから、キリスト教が刷り込まれてるんで」
97:「へえー……、変わってる」
98:美紀が率直にそう漏らすと、華子はプンプン首を横に振って、相楽さんに確認するようにこうたずねた。
99:「普通だよね?」
100:相楽さんは「うん」とうなずきつつ、
101:「でもまあ、普通って感覚は人それぞれだから」とクールに流す。
102:宗教や教育、文化、もちろん金銭感覚もすべて、彼女たちが彼女たちなりの“普通”を生きていることに偽りはないのだろう。かつて幸一郎の別荘に行ったとき、あまりの豪華さにド肝を抜かれた。そのとき「え、普通だろ」と言い放った幸一郎の、子供みたいな素の表情を美紀は思い出した。そしていま目の前にいる華子にも、同じ匂いを嗅ぎとる。この手の金持ちの天然ぶりは、どうも憎めなくて困る。
103:ティーカップをソーサーごと持ち上げ、音もなく紅茶を啜る華子の姿を、美紀はちらりと盗み見ながら思った。幸一郎は、自分と同じ世界、サークル、階層に属する華子のような人と結婚することを端から決めていて、だから美紀のような女がどれほど後天的に魅力を備えようと、いい女ぶろうと、本命には決して選ばないのだ。そのことをいま、嫌というほど思い知らされていたのだった。
104:ここでもし美紀が、相楽さんが言うところの、男が絡むとまったく話が通じなくなるようなタイプの女、だったら、歯嚙みしながら華子のことをただただ羨み、恨んで、嫉妬に狂い、自分を見失って、自己憐憫に駆られていたであろう。
105:しかし美紀は、賢い女である。女が身を滅ぼす物語の典型には、嵌まりたくないと思っている女である。ダークサイドに囚われてしまいそうな感情を飼い慣らし、コントロールして、身を引くことができる女である。だからこそこの奇妙なお茶会に同席しつつ頭の片隅では、これをきっかけに幸一郎とのぐずぐずした関係を清算するのもいいかもしれないと、冷静に考えていたのだった。
106:なんの生産性もない、どこにもゴールを見出せない、男と女の関係。心地よく馴れ合ってはいるものの、それは間違いなく美紀を搾取し、損なっていくものであることに、彼女はとっくに気づいている。何年も前から、終わりにさせなければいけないと思ってもいる。それなのに、幸一郎から連絡が来れば喜び勇んで駆けつけてしまう自分がいた。
107:なにより、美紀は華子のことをちらちら見つめながら、自分が幸一郎とここまで長く続いた理由、彼との関係にこだわってきた理由を、ついに発見した気がした。
108:もしかしたら自分は幸一郎とつき合うことで華子のような人生を追体験しようとしていたのかもしれない。東京の真ん中の、裕福な家庭に生まれ、大事に育てられたお嬢さま。十八歳の美紀が、日吉キャンパスの中庭で見たあのまばゆい内部生たちのような存在に、自分もなってみたかったのだ。その思い、そのこだわりが、いつまでたっても報いられることがないとわかりきっていながら、幸一郎との関係を切れなかった理由に違いない。自分は、幸一郎のステイタスに惹かれていたのだ。でも、もういい加減、大学時代のコンプレックスから自分を解放してもいいころだろう。
109:このチャンスに便乗して、思い切って幸一郎との関係を断ち切るのは、誰のためにでもなく自分自身のために素晴らしい決断になるだろうと、美紀は決心を固めはじめていた。
110:「榛原さんは」
111:華子は顔を上げ、美紀の目を見据えた。
112:なにか意地悪なことを言われたらどうしよう。目の奥に自分への非難が滾っていたらどうしよう。華子はビクつきながら、美紀がどう出るかを待った。
113:「榛原さんは、幸一郎と婚約してるんだよね?」
114:「あ、はい。すみません」
115:「すみませんってー、」
116:相楽さんが場をなごませようと吹き出す。
117:美紀も笑顔を見せてこう言った。
118:「おめでとう」
119:それが本心なのか華子にはわからないが、ともかく彼女はそう言って、華子と幸一郎の結婚を祝したのであった。
120:それから美紀は潔く幸一郎と縁を切ることを二人の前で宣言した。自分にとって幸一郎はただの男友達であるとか、そういう見えすいた言い訳は一切口にせず、華子の耳に入れる必要のないことはなにも言わずに、淡々とバッグからスマホを取り出して、LINEのアカウントを削除しはじめた。
121:「いきなり?ほんとにいいんですか?そこは一回会って話し合って、コンセンサスとってからでも遅くないんじゃ」
122:相楽さんに止められて、美紀はこう切り返す。
123:「だってあんなカッコいい話を聞いたあとで、ウジウジしたことできなくない?」
124:美紀は相楽さんに、共犯者めいた笑顔を向けた。
125:「……カッコいい話?」
126:華子が首を傾げる。
127:「さっきね、彼女が聞かせてくれたの。心中……なんだっけ?」
128:「『心中天網島』」
129:相楽さんは、きょとんとしている華子に目配せして言った。
130:「あとで教えるよ」
- 山内マリコ,2016,『あのこは貴族』集英社.pp.207-19
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「『あのこは貴族』(集英社) – 著者:山内 マリコ – 杉江 松恋による書評 _ 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS」https://allreviews.jp/review/2319