『ペアレントクラシー』(志水 2022)

プロローグ

 「パン・パーン!」冬の朝の張りつめた空気のなか、選手たちの拍手の音が響きわたる。今年こそは、全国大会に出場できますように」、神殿に向かって深くおじぎをしながら、ケンタは心のなかでつぶやいた。「二礼、二拍手、そして深く一礼」、監督さんに教えられた通りに、神妙に選手たちはお参りした。2022年、寅年の幕開けである。ケンタは中学2年生の野球少年。ここは、ケンタが所属するリトルリーグの専用グラウンドの近くにある神社。監督さん、コーチ陣、そして選手たち皆で、お正月の朝いちばんに揃ってお参りするのがチームのならわしだ。

 ケンタの家は、大阪市内の下町にある。大阪のど真ん中と言ってよい。お母さんと高校生のお姉ちゃん、そしておじいちゃん、おばあちゃんと五人で住んでいる。両親は、ケンタが幼い頃に離婚した。内装業に従事しているお父さんは近所に住んでいて、時々阪神タイガースの試合を見にいったり、食事をしたりすることがある。それについて、お母さんはほとんど何も言わない。

 働き者のお母さん。ふだんは近所の整骨院で働き、夜には知り合いのおばちゃんの居酒屋の手伝いに行く。おじいちゃんは、現役のタクシーの運転手。おばあちゃんはお酒のおつまみをつくる工場でパートをしていたが、病気がちになりこのごろはずっと家にいる。そうした家族の暮らしを、コロナが直撃した。収入は減り、逆に治療代が増えた。しんどいに違いないけれど、お母さんはひとことも弱音を吐かない。チームの保護者会の役員でもあり、日曜日には欠かさずグラウンドに出、ケンタたちの練習をさまざまな形でサポートしてくれる。

 「絶対にプロ野球選手になって、お母さんを楽にさせてやりたい」と、ケンタは考えている。熱烈なタイガースファンであるお父さんの影響もあり、小学校低学年から野球をはじめ、高学年になるとリトルリーグのチームに入団した。大阪は少年硬式野球がさかんだが、ケンタのチームもかなりの強豪として知られている。背が高く足の速い彼は、一番バッター、センターのレギュラーであり、二番手投手もつとめる。結果を出し、野球部特待生として名門校に入ることが、ケンタとお母さんの目下の夢である。

 ケンタが通う中学は、かつては「荒れ」で知られた公立中学である。「元ヤン」だったお母さんもお父さんも、この中学の卒業生。今の校長先生は、ケンタのお母さんの担任だった先生だ。当時と比べると生徒数はずいぶん減ったが、現在は部活動がさかんな中学として知られている。大阪市は学校選択制を敷いており、その中学は近隣地域の「人気校」である。きびしいが、面倒見がいい先生が多く、クラスメートも「おもろい」ャツ揃い。ケンタにとって、中学は愉快な場所である。

 「ペロ・ペロ」ほっぺを舐めるコテツの舌の感触で、リオは目を覚ました。彼も中2の男子。「コテツ」とは、彼の家のペットのトイプードルの名前である。ベッド脇の時計をみると、もう昼前。昨日は、家族揃って紅白歌合戦を楽しんだ。お父さんは「ゆく年くる年」を見たあと寝室に引き上げたが、リオはお母さんと夜中まで居間でテレビを見て過ごした。「朝寝坊も仕方ないか」、リオはコテツを抱き上げながら微笑んだ。

 リオの家は、大阪北部の「北摂」と呼ばれるエリアにある高層マンションだ。両親と自分の三人家族。東京大学の大学院を出ているお父さんは、大企業に勤めるエンジニア。コロナ禍になってからは、家でリモートワークをすることが多い。一方、名門音大で学び、ドイツへの留学経験もあるお母さんはバイオリンの先生。現在は自宅で、もっぱら音楽大学や音楽科のある高校を受験する生徒たちにバイオリンを個人教授している。

 コテツが家に来たのは、リオの5歳の誕生日の時だった。リオという名前は、男女どちらでも使える国際的な名前ということで、生まれる前から決まっていたそうだ。その分ぺットには純日本風の名前がいいのではないかというよくわからない理由で、「コテツ」という名がついた。いずれにせよ、以来コテツは、一人っ子のリオにとって、文字通り兄弟のような存在である

 お母さんが、幼い頃から絵本や本を読み聞かせてくれたおかげで、リオは大の本好きとなった。小学校の図書室の本を、5年生までの間にほぼすべて読破したほどである。それだけではない。サッカーをしたいというリオの願いを聞き入れ、1年生の時に地元の伝統あるサッカークラブに加入させてくれた。練習のある日は欠かさず家のポルシエで送り迎えをしてくれたお母さん。もちろんバイオリンの手ほどきも、お手のものだった。

 5年生になる時に転機が訪れた。進学塾に通い始めたのである。それを決めたのは、リオ自身だった。準レギュラークラスだったサッカーの方は、いったんはやめることにした。両立は現実的に無理だったからである。彼は、近隣にある、日本でも有数の大学進学実績を誇る私学の中学部を受験した。事前の模試ではA判定をとっていたが、残念ながら算数の問題でミスをし、不合格となってしまった。

 そこで入学したのが、現在通っている寮制の私立学校である。もう一校、家から通学できる別の私学にも合格し、お母さんは自宅から通えるその学校に行ってほしいと願ったのだが、リオ自身が寮生活をする道を選んだ。入学後に入部したサッカー部のレベルがあまりに低かったため、現在はテニス部に転部し、活動している。来年は高校進学なのだが、より偏差値レベルの高い私学を受け直すことも考え始めている。なぜなら、お父さんの母校東大に是が非でも合格したいのだが、今の学校では難しいような気もするからである。

 元日の今日は、午後から両親と初詣に行くことになっている。そして早速、明日は学校に戻らなければならない。あさって3日から、学校で「冬期勉強合宿」が始まるからである。リオの冬休みはまたたく間に終わりそうだ。

 ここで紹介したケンタとリオの二人が生まれたのは、2008年1月27日のことである。この日は、大阪維新の会を立ち上げた橋下徹氏が、二人の故郷である大阪府の知事選に歴史的な勝利を収めた日であった。

 橋下氏の政治手法は、本書で出てくる「新自由主義」と呼ばれるものを地でいくものであった。新自由主義とは、個人の選択と市場原理を重視する政治スタンスのことであり、学校教育システムに競争原理や成果主義を劇的な形で取り入れようとした氏の教育改革路線は、大阪府内の学校現場に大きな変化をもたらすものであった。

 この新自由主義と本書の主題である「ペアレントクラシー」とは、表裏一体の関係にある。それについては、本書1章で改めて考察することにする。

 ここで強調しておきたいのは、二人が生まれ育ったこの時代は、家庭が所有する各種の「富」と、親が子どもに対してもつ「願望」が、子どもの人生行路にきわめて大きな影響力を及ぼす「ペアレントクラシー」の時代と呼びうるということである。ケンタにもりオにも等しく幸せな人生を送ってほしいと、筆者は心から思う。これからの人生において、ことによると二人がどこかで出会う場面があるかもしれない。しかしながら、その可能性は実質的にはきわめて低いであろう。異なる家庭環境に育った彼らは、学校教育システムのなかで大きく隔たった経験を積み、やがて異なるタイプの社会的世界に旅だっていくことになるだろう。異なる場所に住み、異なる仕事に就き、異なる生活を送ることであろう。彼らの接点は皆無ではないが、将来にわたってほとんど接触することはないように思われる。

 次章以降で、彼らが暮らす世の中、すなわち「ペアレントクラシー」と呼ばれる社会の諸相に迫っていくことにしよう。


志水宏吉,2022,『ペアレントクラシー——『親格差時代』の衝撃』朝日新聞出版.pp.3-9