□動機
「動機は、個人の『内部に』固着した要素ではなく、社会的行為者によるその行動の解釈をおしすすめる条件なのである。行為者による、このような動機の帰属づけと言語的表現とは、社会現象として説明されなければならないのであって、人びとが自らの行為に対して与えるさまざまな理由の違いは、それ自体、理由なくして生じたのではない」(p.345)。
「マックス・ヴェーバーは、動機とは意味の複合体であると、規定する。意味の複合体とは、行為者自身もしくは観察者にとって、その行為のために適切な根拠として映るものである。このような見解によってとらえられる動機の側面は、その本質的に社会的な性格である。十分な、あるいは適切な動機とは、それが他者のものであると行為者のものであるとにかかわらず、行為やプログラムについて問う人を満足させる動機のことである。ある状況におかれた行為者や他の成員にとって、動機は、ひとつの合い言葉として、社会的・言語的行為にかんする問いへの、疑問の余地のない解答として役立つ。
□動機による行為の状況への結びつき、行為の統合、行為の整合化、行為の方向づけ
「ある行為を正当化したり批判したりする際に、現実に用いられている動機は、その行為を明確に状況へと結びつけ、ある人の行為と他者の行為とを統合し、そしてさらに、規範にもとづいて、その行為を整合化する。いろいろな状況について、社会的に支持される動機−代替物は、強制と誘因のふたつである。いくつかのタイプの動機語彙が行為の重要な規定因であるということは、価値のある仮説であり、検証も可能であできる(ママ)。社会的行為の言語的要素として、動機は、その対象の区別を可能にすることによって、行為を方向づける。「善い」とは「楽しい」とか「悪い」というような形容詞は、行為を促進したり抑止したりする。これらのことばが動機の語彙の構成要素となるとき、すなわち、その象徴性や関係性に疑問の余地のないものとして、ある種の状況の付属物となるとき、そのようなことばが、行為者によって予測されるのと同時に、他者の判断とも成ることによって、支持や誘因として機能することがよくある。動機が(自己または他者に)影響を及ぼすことができるのは、このような意味なのである」(pp.349-50)。
□状況に拘束された行為に対する動機の語彙のタイプ
「わたくしの考えている視点にたてば、言語的に表現された動機は、個人に内在する何ものかの指標として用いられるのではなく、状況に拘束された行為に対する動機の語彙のタイプを推論するための基盤として用いられるのである」
「必要なことは、すべての、このような動機の用語の意味をとりあげ、それらを、歴史上の時期とここの状況のなかへ、動機の語彙として位置づけることである。動機は、それが適合する語彙をもっているところの限られた社会的状況をはなれては、何らの価値も持たない。それらは状況づけられなければならないのである。社会的な位置づけを欠く動機論は、せいぜいのところ、動機の帰属付けと言語的表現から社会的な部分を閉め出そうという、はてしのない試みをあらわすだけである。動機は、歴史上の時期と社会構造の異なるにつれて、その内容と性格を変えるものなのである」(p.355)。
「行為や言語を、個人に内在する主観的で深層に横たわる諸要素の外的表現と解するよりもむしろ、社会的に状況づけられた動機の布置と規範的な行為とから成る、いくつかの類型的な枠の中に、いろいろな型の行為を位置づけることこそ、まさしく、われわれの研究課題なのである。さまざまな用語法やリストで、いろいろな動機の語彙を包括することには何の説明的価値もない。こういう手続きは、ここの事例を説明するという仕事を混乱させるだけである。ある状況に対して用いられている言葉は、価値のある資料と見なされ、その存在条件に関連づけて解釈されなければならない。だから、このような動機の語彙を、社会的に抽象化された用語法へと、単純化してしまうのは、社会的な行為を説明する際に、動機を正当に利用する方途を消滅させることになるのである」(p.355)。