ベッカー『完訳アウトサイダーズ』冒頭(Becker 1963=2011: 1-2)

 あらゆる社会集団はさまざまな規則をつくり、それをその時々と場合に応じて執行しようとする。社会の規則は、さまざまな状況とその状況にふさわしい行動の種類を定義し、ある行為を「善」として奨励し、あるいは「悪」として禁止する。ある規則が執行されると、それに違反したと見られる人物は特殊な人間、つまり集団合意にもとづくもろもろの規則にのっとった生き方が期待できないと考えられる。つまり彼は、アウトサイダーとみなされるのだ。

 しかし、こうしてアウトサイダーのラベルを貼られた人間が、そうした事態にたいして、まるで異なった見方をすることもありえよう。彼は自分がそれによって判定を下された規則を承認していないかもしれず、また、自分に判定をくだした者たちに、判定者としての権限も法的資格も認めないかもしれない。ここに、この言葉のもう一つの意味が生ずる。すなわち、規則違反者が判定者をアウトサイダーとみなすこともありうるということである。

 本書において、私は、この両義的用語法によって指摘しうる状況と過程を明らかにしたいと思う。つまり、規則違反と規則執行のさまざまな状況と、ある人びとが規則を破り、他の人びとが規則を執行するにいたるさまざまな過程とである。

 あらかじめ、いくつかの区別をしておこう。規則の種類はじつに多岐にわたる。規則が法律として正式に制定されたものである場合には、国の警察力がその執行にあたる。また一方、規則はインフォーマルな協約を意味することもある。この協約には新しく成立したものもあれば、時代と伝統の裁可によって甲羅を経たものもあろう。この種の規則は多種多様なインフォーマルな制裁によって執行される。

 それと同様、法や伝統の強制力をもつ規則であるにせよ、あるいは意見の一致の所産にすぎない規則であるにせよ、その執行が特定機関、たとえば警察とか専門団体の倫理規定委員会などの任務であることもあれば、それが万人のつとめであるか、少なともその規則が適用される集団内の全員のつとめであることもある。

 それに加えて、執行されない多数の規則が存在する。その種の規則は、重要な公的意義があれば別として、私の関心からははずれる。法令全書に記載されながらも過去百年間、一度も実施されたことのない諸厳法(blue laws)がその例である(しかしながら銘記すべき点は、現に執行されていない法律が種々の理由で復活し、それが当初もっていた効力を回復する場合があることである。その最近の例では、ミズーリ州の日曜商取引場開設に関する法令の一件があった)。同様に、インフォーマルな規則も、執行力の欠如によって消滅することがある。私は、いわば現に実行中の規則とでもいった、執行の意図によってたえず更新している規則に、主な関心を向けようと思う。

 最後に、上述した二重の意味のどちらの場合であっても、ひとりの人間がいったいどれだけ「外部」に位置するかは、場合に応じてさまざまである。交通違反者やパーティでの乱酔者が白眼視されることはそれほどないし、その規則違反の扱いも寛大になされる。だが窃盗者となると、私たちは、自分とは似ても似つかない人間だとみなして、厳罰をくだすにちがいない。殺人、強姦、叛逆罪のごとき犯罪にいたっては、その違犯者は真のアウトサイダーとみなされるのである。

 同様にまた、ある種の規則違反者は判定を不当であるとは考えていない。交通違反者は通常、破った当の規則に記名同意するものである。アルコール中毒患者の場合はしばしば両価的感情をいだき、時には判定者の無理解に怒ったり、また時には強迫的飲酒の害を認めたりする。極端な場合になると、ある種の逸脱者は自分たちがいかに正当であり、また自分たちに非難と懲罰を加える者たちがいかに不当であるかを論じるために、入念なイデオロギーを展開する(同性愛者や麻薬常習者がその好例である)。


Becker, Howard Saul, 1963, Outsiders: Studies in the Sociology of Deviance, London: Free Press of Glencoe. (村上直之訳,2011,『完訳 アウトサイダーズ』現代人文社.)pp.1-2