ハビトゥスとしてのジェンダー(江原 2012)

 それでは身体経験に含まれるジェンダーを、どのようなものとして見ていけばよいのだろうか。私は少し前から、ジェンダーを「ハビトゥス」として見るという方法がある程度有効なのではないかと思っています。「ハビトゥス」という言葉はご存じの方も多いでしょうが、いちおう説明しておきます。

文化的再生産の構造

 「ハビトゥス」とは、習慣とか慣習行動を意味する言葉です。習慣というと、通常、特定の領域の行動を意味しますが、それを指す言葉としては、「プラティーク」という言葉もありますので、「ハビトゥス」は特定の領域における慣習行動ではなく、もっと広範囲の領域に応用可能な行動の構えのようなものを指します。心的諸傾向などとも言われたりするのは、そのためです。ピエール・ブルデューという社会学者がこの「ハビトゥス」という概念を使って文化的再生産論を理論的に提起していることは、皆さんの中にもご存じの方がいらっしゃると思います。

 私は、この「ハビトゥス」という概念を使うと、ジェンダーとは何かがとてもよく理解できるように思います。もともと文化的再生産論は、社会階級を対象として扱っていて、現代社会における社会的諸階級の問題を解き明かそうとしている理論なのですが、日本ではむしろジェンダーの問題に適用した方が、有効な考察を生み出せるのではないかと思っています。なぜなら文化的再生産論は、社会の中には人々の行動や趣味を序列づけるような文化的枠組みがあり、人々はそうした序列づけられた文化的枠組みをほとんど意識することなく採用して他者評価と自己評価を行っており、そうしたことが学校教育を通じて教育的達成に影響を与え、結果として社会階級を再生産しているという説明を行うのですが、日本ではこうした文化的枠組みに規定された他者評価は、とりわけ女性に対して強く行使されてきたように感じられるからです。

 ブルデューによると、現代社会においては教育の機会の平等があり、また職業も階級によって差別されることなく、本人の能力次第でどのような職にもつくことができるように思われているので、社会階級がなかなか見えにくくなっている。こういう社会で、社会階級・出身階級が今もなお人々の職業的・経済的達成を規定している様相を見ることは、従来の枠組みではとうてい無理ということになる。そこで、ブルデューが持ち込んできた概念が「ハビトゥス」です。「ハビトゥス」とは先ほど説明したように慣習行動を意味し、歯を磨くことや、歩き方や服の着方、話し方などをすべて含むわけですが、こういう慣習的行動は、出身階級に大きく規定されている。ところが、学校教育においては、暗黙裡に中間階級的な行動を高く評価するような評価図式があり、労働者階級出身の子どもたちの慣習行動に学力が低いとか「品がない」とかの評価を与えがちになる。その結果労働者階級の子どもは学校での達成も、達成意欲も低くなる。こうしたことが、階級を再生産するのだと説明する。

 ブルデューがいちばんよく言及するのは、趣味です。この趣味という言葉は、「あなたは趣味がいいですね」と言う時の趣味と考えればよいかもしれない。私たちはある人に会うと、その人の外見や行動の仕方、話し方、髪型、お化粧の仕方などによってその人の「趣味のよしあし」を判断する傾向がある。この「趣味のよしあし」として感じられることの多くは、社会通念における「上品\下品」などの評価枠組みに基づいているだけなのに、私たちはそれを、その人の「人間性」そのものを表わすかのように感じてしまうという。たとえば、ブルデューは音楽の趣味を例にとって、こんなことを言う。クラシックファンの間では、「何がお好きですか?」と尋ねられて、その問いに「美しき青きドナウです」なんて答えたりすると、その人の趣味が疑われる、と。(これはブルデューの挙げている例で、私が言っているのではありません。私が「美しき青きドナウ」を好きな人を悪趣味だと言っているのではなくて、フランス社会では「美しき青きドナウ」はクラシックの中ではいちばん大衆趣味に近く、そういう趣味しか持っていない人間はクラシックファンとは言わないという強烈なコードがあると、ブルデューが言っていると紹介しているにすぎません)。文学の趣味でも、音楽や絵画でもよい。どういうものを読み、どういう音楽を聴き、どういう絵を見るか(そもそも絵を見に行くかどうかということも問題ですが)ということは、あたかも本人自身の人柄とか教養の証であるかのように扱われる。

 でも統計的に調べてみると、趣味のよしあしはものの見事に出身階級と一致しているという。つまり労働者階級の人たちも含めて私たちは、自分たちの生活の中にあるものを一般的に好きになり、そうしたものに取り囲まれた暮らしを続けていこうとするのですが、労働者階級出身の人たちがそうするとそれは「階級社会」の中では大衆趣味と呼ばれ、趣味が悪いと定義されてしまう。上流階級の人々も自分たちの生活にあるものを好んでいるだけなのですが、そういう暮らしをすることは、「趣味がよく、教養がある」こと、すなわちその人が優れていることのように、受け止められると。

慣習行動の「自然な」違い

 ジェンダーを「ハビトゥス」として見るのが有効だと私が思う一番の理由は、社会階級に規定された趣味というこの慣習行動が、あたかも本人の性向を表わしているもののように人々に受け止められるという点にあります。ジェンダーにも同じようなことがある。つまり一定の環境において必要とされる行動を行っていくことは、本人の中に趣味のようなそういう心的諸傾向を作り上げることに通じ、そうした心的諸傾向は他者から本人の性向として扱われるだけではなく、本人自身もまたそれを自分自身の本来の性向であるかのように感じてしまう。なぜならば、そうした心的諸傾向の相違は他者にも自分にもはっきりと感じられ、なおかつ長い時間をかけて形成されたものであるゆえに、自分自身でもなかなか変えることが困難であるからです。

 たとえば、多くの女性は、男性と話しの仕方が違うと感じている。なぜ男性はもっと人の話を聞かないのか、なぜ人と打ち解けて話をしないのかなどの疑問を持っています。一方において女性は、他者の話をあまり聞かず、他者の気持ちに配慮しない男性的な話し方が、男性の権力と結びついていることを知っている。また女性が断定的な表現を行わないことが、「女性には合理的な判断能力がない」などの女性評価を生み出していることを知っています。それにもかかわらず、多くの女性は、他者の話をあまり聞かず、他者の感情に配慮しない話し方を「よい」話し方と思うことはなかなかできないし、ましてや男性と同じ話し方に転換することなど簡単にはできはしないのです。したがって、こうした話し方の性差は、あたかも男女の本来の性向であるかのように、受け止められる傾向があります。さらには、話し方の差異を、「脳の構造」の性差として位置づける見方すらあることは、最近のベストセラー(アラン・ビーズほか『話を聞かない男、地図が読めない女』主婦の友社)からもおわかりのことと思います。なぜそうなのか。それは、ジェンダーがハビトゥスとしての側面を持っていることによって、理解できるのではないでしょうか。

 私たちにとって、「女らしさ/男らしさ」の多くは、「女はこういうものだ。男はこういうものだ」というような言語化された知識なのではなく、ほとんど意識に上ることがないほど慣習化され身体化された(身体知覚や動作経験や感情などと結びついた)ハビトゥスとなっているのではないか、そうした行動を行うことが、「自然」に感じられるほど身についた慣習行動になっているのではないか。そうだとすれば、ハビトゥスは本人自身の性向であるように現出する。あることをしたいと思ったり、あるいはそうしない時には不快に感じたりする。そうした感情はあたかも「意識の外」にあるかのように、身体的なものに基づく感情であるかのように感じられるのではないか。そうした感覚があることが、男女の性差というものを物質としての身体の中に見出そうとさせるのではないか。

 けれども、もしそれが慣習行動に基づくものであるならば、そうした感情などを、本人自身の性向やさらには「生物学的相違」や「脳の構造の相違」などに還元してしまうことは、社会的状況の中で獲得されたそうした感情を生み出す慣習行動(の相違)を覆い隠してしまうことにもなる。社会階級について言えば、階級社会によって規定された文化に関する慣習行動の存在を覆い隠し、趣味の相違を本人自身の「品性」や、さらには「知能」や「脳の相違」に還元して理解してしまうとするならば、そうした営み自体強く批判されるのではないか。そうだとすれば、ジェンダーについても、同様に考えるべきではないかと思うのです。

 たとえば、現代日本でも、大学教育は女性よりも男性のほうがより多く受けている。たしかに、女性が大学教育を選択するのが少ないのは、親が決めたから、他者から強制されたからといえるわけではないでしょう。多くの女性は、進学先は自分自身で選んだと言うはずです。平等な学校教育を受けてきて、自由な競争状況であるはずの受験競争に立ち向かい、自分の意思で選んだ結果の大学進学率の差と見える。けれども、こうした状況には、大学進学に対するコスト意識や、それによって手に入れられるものについてのあらかじめの判断などが関与していることは明らかです。特に、コスト意識には、しばしば無意識的なハビトゥスが関与していると思われます。親に自分のためにどれだけお金をかけてもらってよいのか、親の意見にどれだけ抵抗してよいのか、そうしたことをどう考えるのか。こういう感覚こそが、ハビトゥスなのです。それは、かなり広範囲の行動領域においてある程度一貫した行動の構えを取るよう影響を与えている感覚です。ジェンダーとは、こうした感覚自体の性差を言うのではないか。性別によって慣習行動が異なり、そのことによって性別によって異なったハビトゥスが形成され、それが性差として表われてくるのではないか。

 階級の話に戻ると、労働者階級の子どもたちにも、教育的達成を自分自身が選んであきらめる、低い水準で満足するということがあるのです。ある意味で学校は、彼らにとっては、あまり楽しいところではない。労働者階級のハビトゥスを持った彼らは、それをあまり高く評価しない教師から否定的に評価されがちである。それだけではなく、彼ら自身にも、学校での評価があまり大事なこととは感じられない。「学校なんてアホくさい、こんなことやったってろくなことになりゃしない」と感じて進んで学校を辞めたりする。あるいは学校でいい成績をとるなんてことは「男らしくない」ことだと感じたりする。彼らのまわりにそういうものの見方があるから、労働者階級の子どもたちの方が教育的達成は低くなる。それを彼ら自身は自分で選んだと思っている。でも、選ぶことによって階級が再生産される。

 ジェンダーも同じではないか。多くの人は、学校教育は男女平等だと言う。子どもたちの多くは、進路を自分自身で選択していると言う。でもその結果、女性の大学進学率が低くなっている。このことが、男女の職業経歴の差に結びつく。男女の職業上の格差は消えず、再生産される。それは、男女の性向や知能や脳の構造に差があるからではなく、自分の教育にどれだけ投資することが妥当なのかという感覚自体、慣習化され身体化されたハビトゥス自体に、男女差があることから生れている、と考えるべきなのではないか。

 ハビトゥスは、このように行動が「自分にふさわしい」か、「ふさわしくない」かを本人自身に感じさせ、「ふさわしい」行動を選択するように導いていく力を持っています。行動そのものは自分自身が選択したとしても、その行動の選択の背後にある「何がふさわしいか」という感覚自体は、選択しているわけではなく、本人にとっては与件として感じられるものなのです。たとえば小さい子どもがいて、自分が仕事をしているためにその子どもから離れなければならないとする。それをどの程度痛みとして感じるのか、その結果得られる(仕事の存続や経済的利益などの)ものと比較してどの程度なら引き合う痛みと感じるのか。こういうことは、仕事をするかどうかという選択に大きな影響を与える。たしかに仕事をするかどうかは、本人が選択しているとしても、どの程度それを痛みと感じるかは選べるわけではない。本人にとっては、まず感じてしまう(感じられない)痛みとしてあるわけです。

 「女らしさ/男らしさ」というジェンダーは、こういう感覚とてあるのではないか。子どもから離れることにどれだけ強い痛みを感じるか、それをどれだけの犠牲と感じ、どれだけのものと引き合うと感じるか。こうした感覚。あるいは子どものために仕事ができないことをどの程度の痛みと感じるか。それはまず本人を襲う感情としてあり、そうした感覚が男女で違う。こういう感情は、性別役割分業に規定されている。性別役割分業を当然のものとする社会の中で身についていく感情である。しかし、それをハビトゥスとした人にとっては、そういう感情は本人が意識する前にまず感じられる感情としてあるのです。

 ではどうしてそういう感情(の相違)が生まれてくるのか。ジェンダーや階級に規定された私たちの社会においては、ジェンダーや階級によって「ふさわしい」行動が異なっている。そうした行動を繰り返し繰り返し行うと、そういう行動をうまく行うために必要な情報を社会的世界から読み取る力がついてくる。社会的世界とは、社会的に共有された意味や、他者とのコミュニケーションによって形成される意味的世界のことですが、他人の世話をし続ければ、他の人の感情を読み取る力がつき、その結果社会的世界が、他者の感情に焦点をおいた見え方になってくるわけです。そうなると、他者の感情を無視するような行動をとることはしにくくなる。他者の感情を無視すること自体、痛みと感じるようになる。

 これは知覚の問題でもあります。社会的世界の中で何が見えているか、知覚そのものが男女の間でずれている可能性がある。だから、他方にとっては、なぜそういうことを重要視するのか、あるいは重要視しないのか自体が、わからない。女性からすると、たとえば、なぜ男性は子どもの感情を無視できるのか不思議に思うかもしれない。でも往々にして起きていることは、子どもの感情を無視しているということではなくて、そもそも親の行動によって生じる子どもの感情(の相違)を知覚してないということなのです。知覚は、意識にとっては与件です。意識にとって与件である知覚や知覚に基づく感情が違う。だから男と女は違うと感じてしまう。だとすれば、男と女は違うと多くの人が感じていることも、理解できる。それが誤りであるとは言えないと思います。だからといって、性差を「生物学的に決まっている」もの、「本質的」なものと考えなければならないわけではないのです。そうした性差は、慣習行動の相違によって充分生まれうるものでもあるのですから。

男らしい男/女らしい女

 ここまでは子どもへの感情などの身体経験に即してお話ししてきましたが、ハビトゥス論は動作や身のこなしなど身体的活動に関わる慣習行動に適用すると、その真価が発揮できるように思います。たとえば行儀作法・身のこなし方など。これは、昔は女性の教育の中で相当に重要視された領域ですね。今はずいぶん変わってきていますが、それでも企業社会では、いまだに女性の研修というとまず「接遇」が挙げられるくらい重要視されている。お茶の出し方、お辞儀の仕方、電話の受けこたえなどを徹底的に仕込まれる。客室乗務員の研修などでも明らかですが、よい行儀作法や洗練された身のこなし・物腰と考えられている事柄には、明確に男女で相違があります。写真館で写真をとる時、女性は必ず足をそろえて両手を組むように、男性は足を広げて手はこぶしを作ってそれぞれの足の上におくように指示されますね。つまり好感を得られる身のこなしは、男女で異なっているのです。

 こうした事柄は、大して重要ではないと思われがちですが、実際にはひじょうに大きな影響を及ぼしているのではないかと思います。これらの身体の動かし方は、他の行動全体に影響を与えるような心の構え、ハビトゥスを形成している可能性があるからです。このことについてブルデューはすごくおもしろいことを言っています(『ディスタンクシオン』)。ブルデューによると「女らしさ/男らしさ」というのはこの世の中でどれだけ空間を占めていいかという構えなんだそうです。男女の身体技法の根本的な差はそこにあるのではないか。なるべく大きな空間を占めることが「男らしい」ことだとか。

 「大きい男がいい男」というのはそういうことに基づく身体感覚なのかもしれない。大きくて、空間を広く占めていて、存在感があるのが「いい男」なのです。逆に「女らしい」女は楚々としていなければならない。足をそろえ、肩を落とす。なるべく空間を占領せず、人の邪魔をしない。やせた女性、小さい女性が「女らしい」という感覚も、こんなことから説明できるように思えます。

 空間占有という動作経験における身体経験は、他のすべての行動に影響するような汎用性を持っています。たとえばそれは、時間にも拡張されます。空間を占有してよいということは、時間を占有してよいことに通じる。したがって、なるべく大きな空間を占有するようなハビトゥスを身につけた男性は、時間についてもより多く占領してよいと感じるかもしれない。女性は相手が忙しそうにしていると、他の人の時間を占有することへの申しわけなさを感じがちになる。後にしようかと思ったり、「申しわけございませんが、ほんの一、二分よろしいでしょうか」などと断ったりする。空間を占有しない、つまり他人の邪魔にならないのが、「女らしい」ことだとすれば、こういうふうに感じるようになるかもしれない。ところが男性は、自分の存在を大きく見せるのが「男らしさ」ですから、自分がここにいるのにそれを無視されるのは、「体面を傷付けられる」こと、「男らしさ」を否定されることのように感じる可能性がある。つまり動作経験の相違は、どれだけ他人の時間を占有してよいと思えるのかという感覚に拡張されうるわけです。

 またこうした動作経験の相違は、資源をどれだけ使用してよいのかという感覚にも拡張されうる。親の年収が決まっている場合、その中からどれだけ自分の教育に使ってもらってよいのかということは、どれだけ空間を占有してよいのかという感覚と、密接に関連しているように思う。実際、親が貧しかった頃は多くの女性が、男の兄弟の教育費を奪ってしまってはいけないという感情によって、進学をあきらめている。同じように、収入の中でどれだけ自分のためだけにお金を使用できるかというような感覚も、空間占有の動作経験と関連しているように思います。

 総じて女たちはいかに空間を占めないように行動をするかに心を砕き、相手の迷惑にならないよう、資源を一人占めしないように、振るまう。男たちはいかに自分の存在を大きく見せるか、他人が自分の存在を認めるかに関心を払い、そうでないと「面子をつぶされた」ように感じる。「面子をつぶされる」と存在が否定されたような気がするんでしょうね。男は生きていくためには存在を誇示しなければいけない。女はなるべく存在を小さくすることが評価される。女は存在すること自体が「申しわけない」というようなそぶりを見せることが、ある種のハビトゥスになっている。

 ハビトゥスは、性に関する身体経験にも、かなり強い影響力を持っているのではないか。私たちの社会には、「性器は隠すものだ」とか、「性に関わる事柄は人前で話してはいけない」とか、「女性は性的欲望を表わすべきではない」などの社会規範がある。そういう社会規範が自分の性や性器に関わる行動を規定する。多くの女性が、月経中であることが他人にわからないようにするとか、自分からは性的欲望を伝えないといった行動を慣習行動として身につけるわけです。そういう慣習行動は、女性自身の中に深く埋め込まれていて、それに反した行動をとることがとても難しい。またそうしない女性を見ると、否定的感情や差別意識を持ってしまう。(以下略)


江原由美子,2012,『自己決定権とジェンダー』岩波書店.pp.108-21