近年浮上してきており、特定の人名やキャリアに即座に結びつけられるようになった、よりブランド化され個人化されたフェミニズムにとって、このことはさまざまな影響を持つ。主張するフェミニストは即座に識別可能な存在になった。過去においては「集団」で事足りていたのに対して、フェミニズムはいまや大いに個人の名の下に行われ、署名をされた活動になったのだ。
これが、サンドバーグの『リーン・イン』が出版され、カリフォルニアのフェイスブックの最高業務執行責任者(COO)という彼女の地位を根拠にこの本がほとんどの高級紙やテレビを席巻して圧倒的な注目を浴びた文脈である(Sandberg 2012)。この本は、リーン・インという言葉〔恐れずに前に一歩踏み出すという意味〕を、出産育児が迫ってくる時点で仕事とキャリア・パスから心理的に離脱してしまわないようにという呼びかけとして、そしてより広く、仕事場にいる女性たちに対する、指導的な地位にいる人の近くに身を置いて認められやすくするようにという呼びかけとして使うことで、合衆国の多くの都市でいわゆる『リーン・イン』サークルを出現させたのだが、それはそのより明確にフェミニズム的な先駆者である、1970年代の意識向上グループの幽霊のようなバージョンなのである。同様に、サンドバーグが行ったTEDトークは、ユーチューブで240万回以上の再生数を誇った。サンドバーグの著述の独特さは、合衆国のトップのビジネススクールやMBAプログラムと結びつけられるようなジャンルの読み物に、堂々とフェミニズム的な声を持ちこんだことにある。その手のジャンルは、そのような機関の高いステータスにもかかわらず、従来的な学問の、そしてそれを言うならルポルタージュ風の著述スタイルは避けて、楽しくて気分の上がるような挿話、役に立つ助言、法話、メンターに対する、そして著者をそのキャリアの上で助けてくれた人びとに対する感傷的な賛辞、そして富と権力を持った階級に属する有名な友人や知り合いの名前をこれ見よがしに連呼する——そしてそのすべては、彼女の雇用者に対してわずかにでも批判的であったり、不利益を与えたりを慎重に避けるようなフォーマットの中で書かれているのだ。ビジネスのハウツー本のフォーマットを採用することは確かに、自分たちをフェミニストだと定義し、長年にわたって何らかのフェミニズムの政治に参加してきたほとんどの女性の視点からすれば滑稽に近づくし、それゆえに『ガーディアン』のようなリベラル系の新聞や、他の世界中の同様の新聞やウェブサイトでは、この本に対して敵対的もしくは批判的な書評が掲載されたのである。女性が仕事の世界だけでなく、家庭生活でもいかにしてうまくやっていくかという問題に応用された、ビジネス世界由来の語彙が使われていることだけ見ても、企業的な価値観がどれだけ根本的に中心に置かれ、論争の余地もなく明白に見える地位を獲得したか、ということを示唆している。過去においては、リベラル・フェミニズムを含むほとんどすべてのフェミニズムの流派が、男性に支配されたビジネスの世界の文化に異議申し立てをすることに正当な大義を見いだしたのに対して、サンドバーグの場合にはそこにもはや正当性はないのである。サンドバーグの視点から見ると、フェミニズムが意味するのはこのビジネス文化を変えようとすることではなく、それに適応するためのより良い方法を探すことである。そして変化が提案される場合には、少なくとも労働者からより良いパフォーマンスを引き出すという条件がつけられ、その変化は常にビジネスにとっても良いものでなければならないのだ。サンドバーグの本が主張するもっとも重要な論点は、サンドバーグが働く組織の女性たちは、どれだけすばらしい資格を備えていても、子供を産む際に自分たちが遭遇するであろう困難を予期し、妊娠するタイミングに先んじて仕事から離脱し、しばらくの(とはいえ合衆国ではほんの数週間強の)休暇を取る傾向にあるというものだ。そうすることによって女性たちは、自分たちの地位を取り戻すチャンスや昇進の可能性をむざむざ危険に晒し、仕事と母親業をより自信と確信をもって両立させることへとうまく移行していく機会を危険に晒すのである。サンドバーグはそこで「一歩踏み出す」ことを主張し、そのことは今度は、企業生活という文脈において、いまだに不安や自信の欠如の兆候を示す女性たちを表すより広い比喩となっているのである。この本の多くの部分では、ジェンダーの社会心理学的な用語法で語られる、かつてのフェミニズム的な所見が繰り返される——女性たちは認められないことを恐れ、また攻撃的で女性的でないと見られることを恐れている、なぜなら人に好かれたいからだ。といったふうに。サンドバーグの忠告は、企業における男性の儀式的な結束だとか「おそろしい女」についてのステレオタイプに駆り立てられた根深い性差別主義を標的とするのではなく、「集中を切らさない」ままでいながら、微笑みといった(ジェンダー的に従順な)戦略を通じてそういった障害の裏をかく方法を見つけるべし、という典型的なものである。彼女のキャリアはハーヴァード大学にはじまり、世界銀行、合衆国財務省、マッキンゼー、グーグルそしてフェイスブックといった、合衆国でももっとも重要な会社や組織を経巡るものであったが、それは彼女が、世界でとは言わないまでも合衆国でもっとも力のある(そしてもっとも稼いでいる)ビジネスウーマンの一人だということを意味する。彼女が他の女性たちに身につけるべしと忠言しているのは、企業のゲームをもっと器用にこなしなさいということだ。それが意味するのは、「まだ準備ができていません」と言うのではなく、進んで新しい挑戦をすることであろうし、またそれは子育てのために離脱していたあいだに失われた地位や給与水準を再獲得するための踏み台になり得るという前提で、離脱していた期間の後に低い等級で労働市場に再参入する意志があることも意味するだろう。
サンドバーグは、自分の生まれがそれほど恵まれたものではないこと、そしてトップに登りつめるためにこの上ないハードワークと時間を費やしたことを強調して、彼女のリベラル・フェミニストとしての資格を示す。子供を産む前には、彼女はオフィスで1日14時間以上働くことを常とし、そして子供を産んだ後はより短い労働時間で生産性をより高める方法も学んだとはいえ、彼女はいまだに、子供に読み聞かせをして寝かしつけた後にラップトップをふたたび開くのだと繰り返し語っている。彼女は働き者の母がいることによって子供たちが苦しめられてはいないと主張し、自分の子供にあまり会えないときには「悲しく思う」とも認め、そして夕食に間に合うように帰宅する最善の努力をしていると強調している(ただし彼女は買い出し、料理、掃除といった決まり仕事については触れないので、読者は彼女にはお手伝いさんがいるのだろうと推測するしかない。「良い助け手」を持つことが不可欠であり、サンドバーグはごく近所に親類がいるという幸運な地位にもある。彼女は進んで家事と育児に参加するきちんとした夫を探すよう女性たちに忠告し、そしてまた、成功した母親業と「職場での成功」を両立させる方法を見つけようとするにあたっては、結婚と家庭という前線に「交渉戦略」を持ちこむべしと示唆する。このネオリベラリズムの世界の中心地にもたらされるリベラル・フェミニズムのメッセージとは、女性が子育ての早い時期においても経済的に活発でありつづけ、みごとな成功を収めることは可能だ。というものである。どうやって「一歩踏み出す」かを知っていれば、彼女たちはあきらめて敗北する必要はないのだ。
「国が提供する保育所」は言うまでもなく、「保育」という言葉も『リーン・イン』を通じて登場することはない。サンドバーグの論調はポジティヴで明るく、元気を与えてくれ、彼女が心から女性たちの生活を改善したいと思っているという点で、心底フェミニズム的である。しかし、彼女の著作からは、非エリートの雇用を記述する語彙がまるまる抜け落ちている。その語彙とは、貧困や失業、育児の高いコストと低くなりがちな質、また白人の中流エリート女性が移民女性(その多くは生活費を稼ぐために自分たちの子供から引き離され、したがって自分たち自身は「上質な育児」を子供にほどこすことはできない)による低賃金の家事労働に依存していることなどだ。合衆国に女性のための有給の育児休暇は存在しないことや、雇用主が提供する託児所や保育所の必要については何も述べられないのだが、それはあたかも、それらに言及してしまうと企業文化とビジネスの世界を批判する方向にちょっと踏み出しすぎてしまうかのようだ。サンドバーグは地元のお隣さんだとか、自助的な保育といったことは一顧だにせず、その代わりに長時間労働をして企業の昇進の梯子を昇っていくことが頑なに述べられる。暗黙のうちにサンドバーグは、彼女自身に似ている若い女性、つまり名門大学に通う女性に向けて語っているのだ。つまり、彼女が語りかける相手はもっぱら、特権的で、ほとんどは白人であるミドルクラスの人口層だということである。サンドバーグがフェミニズムとして説明するものは、じつのところ同時に安定的なネオリベラル・フェミニズムとして発明されてもいるのであるが、それは相対的に選別された女性の層の既得の特権を守り強めることを存在意義とした政治的な勢力であり、とりわけ母となるにあたっての彼女たちの地位は、国家の退却とあらゆる公的支出の削減の時代にあって、以前よりもさらに大きな道徳的責任を負わされたものになっているのだ。それは根本的に脱政治化され飼い慣らされてしまったフェミニズムであり、その保守主義はそれが議論や対立からしりごみすることにもっとも明確に表れている。それが要求するのは、議論のテーブルに椅子を用意することだけなのだ。それが、ネオリベラル・フェミニズムの公の顔として現れたものなのである。
McRobbie, Angela, 2020, Feminism and the Politics of Resilience: Essays on Gender, Media and the End of Welfare, Cambridge: Polity.(田中東子・河野真太郎訳,2022,『フェミニズムとレジリエンスの政治――ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』青土社.)pp.63-69