ポストフェミニズムとメディア(河野 2024: 594-5)

 ポストフェミニズムという用語は、2000年代の英米のフェミニズム研究で、1990年代以降のフェミニズムの状況を表す言葉として定着したと見てよいだろう。ポストフェミニズム論の筆頭の論者であるイギリスの文化研究者アンジェラ・マクロビーはポストフェミニズムの始まりを1990年としている(McRobbie, 2008)。ポストフェミニズムはそれ以前の第1波や第2波、さらにはその後の波や第4波のフェミニズムとはまったく意味が異なっており、フェミニズムの新たな思潮というよりは、1990年代以降にフェミニズムや女性が置かれている状況の名前だと考えた方がよい。

 その状況とは、冷戦構造の終焉に伴うグローバルな資本主義の勝利、その各国内での表現としての新自由主義の隆盛の状況である。マクロビーが指摘する1990年は、80年代までの第2波フェミニズムの変容とともに、1989年のベルリンの壁の崩壊と1991年のソ連解体に挾まれた冷戦の終結を象徴する年なのだ。

 そのような複合状況におけるポストフェミニズムは、単なるバックラッシュではない。マクロビーの表現を使えば、それは「複雑化」される必要のあるバックラッシュである。それは第2波フェミニズムの成果を単に否定して旧に復するものではなく、第2波フェミニズムの「解放」への衝動を部分的に受け継ぎ、新自由主義的な社会において許容可能なフェミニズムとそうではないフェミニズムを区分けする。この許容可能なフェミニズムについては、ポストフェミニズム以外にさまざまな名前が付けられてきた。新自由主義フェミニズム(キャサリン・ロッテンバーグ)企業フェミニズム(ドーン・フォスター)、ボピュラーフェミニズム(サラ・バネット=ワイザー)など、そこでは、新自由主義的なハイバーメリトクラシー(超実力・業績主義)を勝ち抜く女性個人の努力と能力が称揚される一方で、連帯による集団的な社会の変革や資本主義と家父長制の結託を批判する社会主義フェミニズム的な問題意識は排除されていった。

#MeTooとポストフェミニズム

 2010年代後半に盛り上がりを見せた#MeToo運動(これを「第4波」の中心と見なす論者もいる)を評価するにあたっては、ポストフェミニズムという背景を考慮する必要がある。その際に重要になるのが、メディアとフェミニズムの可視性との関係である。

 #MeToo運動はもともと、黒人女性の性暴力被害者支援の活動のスローガンとして、タラナ・バークが使用したものであった。しかしこれがハッシュタグの、つまりSNSを中心とするネットメディア上の運動として爆発的に広まったのは、2017年にハリウッドの大物プロデューサーであるハーヴィー・ワインスティーンによるセクシュアルハラスメントを・著名な俳優たちが告発する際に利用してからであった。#MeToo運動そのものは、性被害に泣き寝入りすることのない文化を世界的に生み出したという意味で評価されるべきだ。だが、そのような動きの中で、可視性を獲得し、運動として進展するフェミニズムとそうはならないフェミニズムとの間の分断が生じていることは見逃すべきではない。そのような分断起源を考えるにあたっては、現在のフェミニズムの可能性の条件となっているポストフェミニズム状況. そしてそのメディアとの関係を振り返る必要がある。

ポストフェミニズムと可視性のエコノミー

 ポストフェミニズムとメディアの関係は、大きく分けて2つ(または3つ)の観点から考えられるべきだ。1つは、フェミニズムの可視性にとってメディアが重要となるという観点である。これは肯定的でありつつ、前述の分断を生む否定的なものでもある。この分断を解きほぐすためには、メディアが女性主体をどのように構成してきたかというもう一つの視点が必要になるだろう。

 アンジェラ・マクロビーやロザリンド・ギルといった、ポストフェミニズムをキーワードとして仕事をしてきた文化研究・メディア研究者たちの仕事は、まさにメディアがいかにして女性主体、もしくは「ポストフェミニズム的な感受性」(Gill, 2006)を構築してきたかをめぐるものだった。そして、ポストフェミニズム的主体・感受性とはすなわち、(上記の定義からすれば)新自由主義的主体・感受性でもある。

 その新自由主義的主体・感受性とは、まずは先に示唆したようなハイパーメリトクラシーに適応し、自己責任・自己管理・自己の資本化といったものに適応した主体であり感受性だろう。また、その主体は福祉国家的なものへの依存を否定し、仕事、家事子育て、健康と美容などの「すべてをもつ(have-it-all)」主体でもあるだろう。そのような主体が映画やドラマといった創作物だけではなく、広告や雑誌といったメディアを通じていかにして構築されてきたかを、文化研究者たちは解き明かそうとしてきた。

 ここではそのような主体がそれ自体「メディア化」された主体であることを示唆しておく(これが上記の第3の観点である)。主体がメディア化されているということにはさまざまな意味があり得る。それは例えばSNS的な「映え」を志向する主体が新たな女性性として規範化されることでもあるが、もう一つの意味は、職業としてのメディア産業そのものがある種の規範的な主体性の場となることだ。ポストフェミニズムを象徴する映画作品《ブリジット・ジョーンズの日記》(2001)から、#MeToo時代を象徴する作品《スキャンダル》(2020)の女性たちがみなメディア産業に属していることには、単なる設定以上の意味がある。それはメディアによってつくり上げられながらもメディアとなって情報発信者ともなる、現代の女性主体への探究になっているのだ。


河野真太郎,2024,「ポストフェミニズムとメディア」ジェンダー事典編集委員会編『ジェンダー事典』丸善出版,594-5.pp.594-5