男女雇用機会均等法のオモテとウラ
70年代は「女の時代」と言われました。徐々に進んだ晩婚化により女性の結婚前の「腰かけ就労」が長期化し、初めて購買力を持つ女性マーケットができてきました。その層をターゲットにしたのが女性誌で、70年に『an・an』、71年に『non・no』が創刊されます。88年には「キャリアとケッコンだけじゃいや。」を標語にした『Hanako』が創刊されますが、彼女たちはあくまで消費者としての位置づけでした。
こうした女性たちも、結婚したあとの就労は期待されていませんでした。まだまだ「寿退社」が慣行で、しなかったら肩たたきにあった時代です。しかしやがて、企業は女性が使えるということに気づくようになっていきます。まず、小売業界や保険業界などの女性向け市場、女性向け職場と言われるところで女性の就労期間が長期化し、生え抜きの女性管理職が誕生するようになります。また企業は、それまで主力だった高卒女子に加え、大卒女子も採用するようになります。それまで大卒女子はそもそも数が少なかった上に、高卒女子と大卒男子という学歴・性別ヒエラルキーの中にポジションがありませんでした。しかし女が使えることに気づいた企業は徐々にその採用を増やしていきます
この流れの中で、1985年に男女雇用機会均等法ができます。前章で見たように、75年からは国際女性年の上昇気流に乗っていた時代で、条約の批准に合わせて雇用の性差別を禁止する法律をつくらなければという機運が高まっていました。実際に、75年に発足した「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」は、「私たちの男女雇用平等法をつくる会」をつくり、法律の素案をつくっていました。
ところが、蓋を開けてみると、雇用平等法に関する政府審議会の過程は、経営側委員に押された労働側委員の譲歩に次ぐ譲歩でした。追い詰められた女性たちは最後に「こんなものいらない」と言ったのです。
これは歴史に残しておくべき事実だと思うのですが、男女雇用機会均等法ができたとき、名だたる日本の女性団体のほとんどが反対に回りました。驚くかもしれませんが、均等法の成立は実は日本の女性運動の敗北だったのです。
平等を求めるなら保護は捨てろ
なぜ敗北なのか。理由は2つあります。一つは、経営側が労働側に対し、「平等を求めるなら保護は捨てなさい」と言い、それを飲まされたからです。保護とは労働基準法にあった女子保護規定です。
労働基準法には戦後長い間、女子保護規定がありました。母体保護を目的に、①生理休暇、②22-5時までの夜間労働の禁止、③危険有害業務の禁止が定められていました。前章でリブ合宿の取材に女性記者がほとんどいなかったと言いましたが、その理由が②です。これがあったため女性の新聞記者は夜中のサツ回りや支局勤務ができず、キャリアを積めませんでした。
経営側は「保護か平等か」の二者択一を女性労働者に迫りました。ところが.女子保護規定というのはどれも、女性労働者の闘いの獲得物でした。もう一つの理由は、経営側が言う「平等」とは結果の平等ではなく機会の均等、男性の働き方のルールを変えないまま女性に同じルールのもとで平等な競争をさせるというものでした。蓋を開けてみたら、雇用平等法は雇用機会均等法に換骨奪胎されていました。しかもその「機会の均等」すら、実効性のない「絵に描いた餅」にすぎませんでした。
男女雇用機会均等法が禁止の対象にしたのは、募集・採用、配置・昇進、福利・厚生、教育・研修における女性差別ですが、このうち経営側に義務とされたのは福利・厚生と教育・研修だけ。肝心な募集・採用、配置・昇進については、経営側の「努力義務」とされ、罰則もありませんでした。つまり従わなくても何のお咎めもないのです。
こんな絵に描いた餅の平等に対し、やっとの思いで獲得した女子保護規定を手放せというのですから、これは遣らずぶったくりです。「私たちの男女雇用平等法をつくる会」は、保護も平等もと要求しました。夜間労働や危険有害業務が女に禁止なら、男にも禁止すべきだと言った。しかしそんな要求を経営側が呑むわけはなく、すべてことごとくはねつけられました。
このとき女が一枚岩になれなかったことは事実です。管理職やジャーナリストの女性たちは男女雇用機会均等法を歓迎しました。女子保護規定が出世の妨げだったからです。いま、新聞社の社会部、政治部、経済部などでこれだけ女性記者が働いているのは、均等法のおかげです。
「紳士服仕立て」の法律
男女雇用機会均等法の最大の問題は、男の働き方を不問にしたままの機会均等だったことです。男が中心の日本型雇用は次の3点セットで成り立っています。終身雇用、年功序列給与体系、企業内組合。つまり、一つの組織に長くいればいるほど後払いで得をするシステムです。このシステムに乗って長期勤続する男たちは「女が早く辞めるのは自己責任だ」と言います。しかし、女が仕事を辞めるのは男が家事も育児もしないからです。長時間労働を当然視する構造的な条件が背後にあるために、家庭を顧みないからです。
あるルールが男性もしくは女性のいずれかの集団に著しく有利もしくは不利に働くとき、そのルールを性差別的と定義します。日本型経営は明らかに性差別的に作用します。女性を構造的・組織的に排除する効果があるからです。経営側は、女に「ここに入ってこい」と、「機会は均等にしたのだから、あとはこのルールの下でフェアに競争しなさい、勝ち残りなさい」と言ったことになります。
ところがこれは女にとっては家事育児というハンディを背負った競争です。ハンディ付きの競争は、よ1いドンで一斉に走り出してもゴールで負けるに決まっています。つまりこれは女が敗者になることが予定されたアンフェアな競争なのに、あたかも自己決定であるかのように見せかける騙し討ちのようなものです。
ジェンダー研究者の大沢真理さんが、英語のスピーチで「この法律はテーラーメイドの法律だ」と言ったのを聞いて、その表現力に感心しました。テーラーメイドとは「紳士服仕立て」という意味です。つまり、紳士服仕立てのカラダに合わない服にむりやり自分を合わせることのできた女だけが生き延びることができる法律だと、喝破したのです。均等法施行後に採用された均等法1期生はいま50代後半になっていますが、1期生の総合職女性の離職率は高く、死屍累々の中で、ごく一部の人たちだけが生き延びることができたのも当然でしょう。
女性の分断が始まった
均等法をきっかけに企業は男女別採用をコース別採用(一般職/総合職)に切り替えました。その結果、男性は全員総合職、女性はわずかな総合職とほとんどが一般職という性別分離が起きました。まれに一般職を希望する男性がいると「悪いようにはしないから」と総合職に誘導されたりもしました。総合職採用の女子社員にお茶くみをさせるかどうかが職場で問題になったりしました。賃金の高い総合職女性にお茶くみはさせられない、とはいえ総合職女性をお茶くみ当番からはずすと女子社員間の人間関係に軋轢が生じる、と管理職は真剣に悩んだのです。当時、多くの職場では社員がマイ湯飲みを持参して女子社員にお茶を入れてもらっていました。女子社員はそのために30分早く出社したり、職場全員分のお茶の濃さの好みを覚えたりしていました。たかだか30数年前までこんなことが行われていたなんて! 総合職女子社員をパンダ扱いして、持参する弁当をチェックするとか、いろんな悲喜劇が起こりました。しかもジェンダー格差が採用区分格差に置き換わったせいで、異なる処遇を性差別だと言うことすらできなくなりました。
どんな出来事も時間が経てば歴史的検証の対象になります。均等法30周年の2015年、女性会員が増えた(わたしもその1人です)日本学術会議は、「均等法は『白鳥』になれたのか」と題したシンポジウムを主催しました。醜いアヒルの子として生まれた均等法だが、数度にわたる改正の中で、もしかしたら白鳥に変身したかもしれない、どうだろうか?というシンポジウムです。わたしの答えは、均等法は白鳥ではなく、ネオリベラリズム(新自由主義)の「鴨」になった、というものでした。
30年経ってみると、わたしを含め均等法に批判的だった研究者たちの多くは、「まあ、ないよりはましだったね」という総括になっていました。その1番大きな理由は、97年の改正でセクハラ防止が経営側の責任になったこと。これが均等法の最大の功績です。同じ年の改正で募集・採用、配置・昇進が努力義務から禁止規定になったことも大きな変化です。
もう一つ、均等法成立と同じ1985年に労働者派遣事業法が成立したことも重要です。戦後、労働の斡旋(ベタに言うと口入れ屋とかピンハネ業)は、公序良俗に反するから金儲けのためにやってはいけないということで、公共職業安定所(ハローワーク)が担当してきました。それが85年、営利目的の民間企業に解禁されたのです。
このころすでに政治のネオリベラリズム改革が進んでいました。ネオリベラリズムとは、こんにちに続く、市場原理重視、政府による規制を緩和し、行政サービスを縮小する政治経済思想です。それが女性雇用に結実したのが、派遣事業法でした。その後派遣事業法は改正に次ぐ改正を続け、こんにちでは派遣はほぼ全職種に適用可能で、かつ1日派遣もOKというところまで来てしまいました。非正規雇用者の数もものすごい勢いで増えました。いま、非正規雇用者の10人に7人が女性です。そして働く女性の10人に6人が非正規です。経営側は狡知に長けていると、つくづく感心します。不況のもとで人件費を削減するために、働く女性たちは、やられっぱなしでした。いま、85年という年を回顧的に振り返り、あの年はいったい何だったかと問われたとき、あれは「女性の分断元年」「女性の貧困元年」「女女格差元年」だったと言われるようになりました。ネオリベの波に女性が飲み込まれて分解されていった時代です。結果としてフェミニズムは闘いにくくなりました。女が分断され、利害が一致しなくなっていったからです。
上野千鶴子,2022,『フェミニズムがひらいた道』NHK出版.pp.57-65