性別役割分業は、近代社会での国民国家の競合状態という条件のために生まれたものである。女性が出産や育児、家事に携わってきたのは、近代社会という社会のありようの帰結(=役割分業)にすぎない。この役割分業は性による不平等を含んでいる。役割を振られていることは同じでも、その役割を引き受けた結果もたらされる経済的・社会的資源分配に差が生じるからである。その差は世代を超えて蓄積され、あたかも最初から存在していたかのような差になっている。そのような事態を一般に差別と表現する。性差の不平等が性差別、男女差別、女性差別などの言葉で表現されるゆえんである。
普通、このような不平等が存在するならば、その「損な役割」を押し付けられた人々は文句を言うなり、役割を降りようとするだろう。一方「得な役割」にある人々は、何とかその役割を維持しようとするだろう。その際に人々が多用するのが本質主義的言説と呼ばれるものである。本質主義について、ここでは、物や人には何らかの生得的・先天的な本質が存在していて、それは不変のものであるという発想によって紡ぎ出される言葉や考えの集積と理解すればいい。この発想は、究極には形質還元主義だといえる。それは、ある人が現在のような存在であるのは、突き詰めれば、DNAの塩基配列という身体の形質によって決定づけられているという考え方である。ジェンダーで問題になる「女らしさ/男らしさ」などの「らしさ」という発想の底には、このような本質を想定する視点がある。別の言い方をすれば、本質主義とは運命論でもある。どのような形質的条件に生まれたかによって、その人の性質や価値が決まっているという発想だ。血統や血筋に何らかの崇高さや薇れを感じるという感性などは、典型的な本質主義に基づくものである。
このような本質主義的感性は、性差に関わる領域でも頻繁にみられる。女性は生まれつき優しさや包容力がある、男性には狩猟本能がある、女性には母性本能がある、などである。しかしこれらの言説が、奇妙にも近代の性別役割分業と対応していることに注意が必要である。女性の優しさや包容力は家事などの維持労働と、男性の狩猟本能は公的領域での競争と、母性本能は育児や介護(ケア)と、それぞれ関連づけて語られてきた。性別に基づく本質は、それが不変で自然なものであるとされ、その特性と社会での分業や存在様態が結び付けられる。この結び付きは、分業のなかで「損な役割」を本質的なものとして女性に受け入れさせるためのロジックとして機能してきたのである。
本質主義的視点が人々に受容されやすいのは、その発想の安易さによる。本質主義とは、極言すれば「そのように決まっている」というものであるため、論理はそこで切断され、それ以上の思考を必要としない。差別や支配を告発する議論に対して、その訴えの対象を本質に基づく既決事項としてバッサリと議論を切り捨てる視点は、多くはその差別や支配によって利益を得ている人々によって唱えられる。それは、差別や支配についての議論そのものを禁止し、差別や支配から得られる利益を維持するための安易な方法である。
しかし差別や支配を受ける側にも、本質主義的発想はときに受容される。「損な役割」にある人々は自身に向けられた差別や不平等に怒りを覚えるだろう。それは当然の反応である。しかし、怒りや不平等解消へのはたらきかけには多大なエネルギーを必要とする。どれだけ怒りを感じても、不平等が改善されないのではないか、という疑念が頭をよぎると、怒りは激しい消耗に変わる。そのようなとき、本質主義の“安易さ”は誘惑になりうる。不平等だと感じる状態が本質によって決定されているのであれば、それは逃れようがなく、仕方がない状態と認識される。現状には不服でも、そのように決まっているのだと割り切れば、少なくとも消耗といら立ちからは解放される。本質主義の安易さは、このように被抑圧者が差別や抑圧を受け入れるきっかけとして作用することもありうる(これについては第4章であらためて考える)。つまり、本質主義的言説は、ときに被抑圧者をも巻き込んで役割分業を維持する。本質主義的言説は社会のさまざまな場面で、役割分業を維持するためにフル稼働し、それが当たり前のことになっている。
このようにして、本質主義は人々の感性として一般的なものになる。しかし、本質主義的感性が人々に受け入れられることと、実際に本質なるものが存在しているか否かは関係がない。これは、人々が天動説を信じていたからといって、それが地球の自転には何ら関係がなかったことと同じである。本質なるものが存在していなくても、それが存在しているかのように人々が信じていることによって、社会の仕組みや関係が成り立ってきた可能性がある。この点をあらためて問い直したのが、構築主義的視点である。
構築主義とは、人々が自明で自然だと思っている事柄が、近代社会が発展する過程で社会的に構築された(作り上げられた)ものなのではないかと考える視点である。構築主義が問題にするのは、誰もが「作られた」と考えているような事柄についてだけではない。最初から存在した、先天的に備わっている、などという概念そのものが、実際には社会的に作られたものではないか、と疑うものでもある。そしてジェンダー論では、構築主義は最も基本的な視座である。ジェンダーは長らく、所与のものであり、先天的に備わっている性質だと思われてきたからである。しかし、よくよく考えてみると、そのように思う根拠がきわめて怪しかったり、ごまかしが存在したりするなど、問題が多く存在していた。このことをジェンダー研究は逐一明らかにしてきたのである。言い換えれば、ジェンダー研究は本質主義の欺瞞を解き明かしていく営みでもあった。
ここで重要なことは、あくまでも認識のうえでの話だが、本質主義という発想が構築主義に先立って存在していたわけではないということである。構築主義的視点が登場してはじめて、本質主義が問題化されたといえる。つまり論理的には、本質主義とは構築主義から逆照射された概念である。それまでは当たり前で自然なことだと思われていた事柄が、構築主義的視点からそれをまなざすときに、本質主義と呼ばれるものだったと理解されるのである。実のところ「私は本質主義者です」などと思っている人はほとんどいない。本質主義者の多くは「私は一般的な普通の人」だと思っている。役割分業は多くの本質主義的言説を生産する。そのため、近代社会は本質主義的な発想や視点に満ちている。それらは常にバージョンを更新しながら社会のあらゆる場面でフル稼働していて、その結果、われわれは本質というものが存在すると考えるようになる。そうした機序(メカニズム)について構築主義は指摘しているのである。
池田緑,2024,『ジェンダーの考え方――権力とポジショナリティから考える入門書』青弓社.pp.21-3