学校における女子と男子のサブカルチャー(木村 2023)

 日常生活において子どもたちは主体として、性別二分法の境界を日々引き直している。境界は常にゆらいでいるし、複数の線引きも可能だ。その結果、それぞれの同性集団においても、さらにサブカテゴリーが生まれる。学校の中で子どもたちが形成するサブカルチャーに関する研究から、「女の子」「男の子」の多様性をみてみよう。

 まずは、女の子集団について。女の子たちは、自他にとっての「女らしさ」をどのような指標で定義づけているのだろうか。

 宮崎[1993]は、女子高校の参与観察を通じて、女子生徒たちの中には、成績がよい「勉強」、漫画などの共通の趣味で集う「オタッキー」.ファッションを重視し学校外活動が活発な「ヤンキー」、前三者ほどは特徴が目立たない「一般」の4つのグループがあることを発見している。この4グループは、学校に適応的か反抗的かということと、彼女たちが重視する「女らしさ」によって区別される。前者の基準でいえば、最も学校に反抗的なのは「ヤンキー」グループであるが、これらの4つのグループが互いを切り分けるために頻繁に言及するのは後者の基準のようだ。彼女たちは、「女らしさ」に関して相互に厳しく批判することで自他のアイデンティティを確立しているという。「勉強」グループは「品のよさ」や「貞淑さ」を重んじ、そうした女性性から遠い「ヤンキー」グループを批判する。逆に、「ヤンキー」グループは、「かわいくない」「彼氏がいない」「世界が狭い」「非現実的」だとして「勉強」「オタッキー」グループを批判する。彼女たちは、ジェンダーとセクシュアリティの観点からみて、相互に自分たちとは異なる点を批判的に言及することで、それぞれの特徴を明確にし、「女らしさ」に関する境界を引き直すのである。

 上間[2002]もまた、私立女子高校での参与観察の結果、「トップ」「コギャル」「オタク」という3つのグループの分化と、そのヒエラルキーを描.き出している。3つのグループの関係性やメンバーの移動、グループの再編には時間軸に沿って変化するが、そこではマスメディアや繁華街と連動した「コギャル」文化が常に重要な位置を占めていた。しかし、重要な点は、消費社会的な「コギャル」文化が学校の外から持ち込まれるだけではなく、学校という場こそが女子高校生たちのサブカルチャーをはぐくみ、アイデンティティ獲得と修正(ギデンズの「再帰的プロジェクト」)を可能にしているということだ。

 男の子集団についても、いくつかの興味深い研究がある。土田[2008]は、男子校・女子校へのアンケートと教員インタビューによって、ジェンダーの視点から男の子の多様性を検討し、学業やスポーツ、クラスでの人気などの何らかの「男らしさ」にコミットできない男の子たちは、自尊感情が低く、学校生活の中で周辺化されがちであることを示している。私立の男子高校の中には、そうした男の子たちに対して、「男らしさ」の序列や競争から距離を置き、比較的安心して過ごせる環境を提供する試みがあるという。

 男子高校生を対象としたエスノグラフィを行った知念[2018]は、生徒たちによるジェンダーにかかわる実践が性別二分法によってのみ秩序化されているのではなく、「男らしさ」は何かという視点から、男子集団内の多層的な分化(differentiation)が構成されていると論じる。知念が観察した男子集団においては、「ヤンチャ(=喫煙・飲酒・喧嘩などの「問題行動」を繰り返す)」「イッバン(=一般的な生徒)」「インキャラ(=陰気なキャラクターの意味)」の境界と序列構造が意識されていた。「ヤンチャな生徒たち」は、自分たちが定義する「男らしさ」の基準に照らして、「インキャラ」的な言動を劣位に置いている。ただ、「インキャラ」は特定の集団を固定的に呼びならわす形では使用されておらず、彼らは「インキャラ」という解釈枠組みを用いて、他者だけではなく自身の行動についても、その時々の文脈に即して男性性の再定義をし続けていた。社会階層とジェンダーとの交差についていえば、「ヤンチャな」生徒には貧困・生活不安定層出身者が多く、ウィリスがイギリスで観察した「野郎ども」に近い反学校文化を有し、家庭の文化と学校の文化との間の葛藤によるジレンマを経験していた。

 ジェンダーの社会化に関する「社会のカリキュラム」や学校における「隠れたカリキュラム」を通じて、子どもたちは「女の子」「男の子」として「つくられていく」。ただし、以上でみてきたように、わたしたちは、たんに受動的に「つくられ」、「男」「女」としてあるべき形に固定化されるわけではない。男性性・女性性にかかわる種々のメッセージを可能な範囲で取捨選択し、社会的文脈ごとに他者との交渉を通じて、特定の「女」「男」にみずから「なる」ということを見落としてはならない。かつ、そのプロセスはどこかの時点で完成するのではない。各ライフステージや生活の場面において、すべての人が自分のジェンダー・アイデンティティを再定義し続けているのだ。


木村涼子,2023,「ジェンダー・セクシュアリティと教育」苅谷剛彦・濱名陽子・木村涼子・酒井朗『新・教育の社会学——「常識」の問い方・見直し方』有斐閣,158-252.pp.181-4