「上層」と「下層」の人びとの違いは、前者が後者を置き去りにできることである。そして、逆はありえない。現代の都市は「逆向きのアパルトヘイト」の場である。移動できる人びとは、移動できない人びとがつなぎとめられている地域の汚れや不潔さを捨てて去ってゆく。ワシントンDCでは、彼らはそれを実行済みである。シカゴやクリーヴランドやバルティモアでは、彼らはそれを完了しつつある。ワシントンでは、住宅市場に関していかなる差別も行なわれていない。だが、西の16番ストリートと北西のポトマック河のあいだには不可視の境界線が引かれており、賢明な者は誰もその向こう側に行こうとはしない。その、見えないけれどもあまりに明白な境界線の向こう側に取り残された若者たちは、豪華絢爛の優雅な世界や洗練された遊びのあるワシントンのダウンタウンとはまったく無縁である。彼らの人生のなかに、このダウンタウンは存在しない。この境界線を越えての対話は成立しない。人生の経験があまりにも違っているため、境界線の両側の住民が、偶然に出会って立ち話をしようとしても、いったいなんの話題から始めればよいのかお互いにわからない。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが述べたように、「もしライオンが話すことができたとしても、私たちには理解できないであろう」。
ほかにも違いはある。「上層」の人びとは、旅の目的に応じて行き先をじっくりと選び、生涯をとおして心の欲するままに旅行することに満足している。「下層」の人びとは、彼らがむしろ滞在を続けたいと思う場所から頻繁に追放される。(1975年には国連が設けた高等弁務官の庇護のもとに、200万人の人びとが難民として他国への移住を余儀なくされた。1995年には、その数は2700万人になった。)彼らが動こうとしなくても、その土地は彼らの足もとからなんども引き剥がされ、まるでどこかに動いているかのように感じられる。彼らがその地を離れるにしても、ほとんどの場合、行き先を選ぶのは他人である。その行き先もおよそ愉快な場所であることはなく、そもそも愉快かどうかは行き先を選ぶにあたって考慮されない。彼らは喜んで放棄したくなるような非常に不快な土地に落ち着くだろう。だが、彼らを迎えてくれて、仮住まいを認めてくれそうな場所はほかにありそうもない。彼らにほかの行き場所などは存在しない。
世界各地で、入国査証は漸進的に廃止される方向にある。しかし、旅券の審査はそうではない。これは査証の廃止にともなう混乱を処理するためになお、おそらくこれまで以上に、いっそう必要とされている。つまり、旅行の利便性と手続きの簡素化のために査証を免除された人びとを、最初の出発地の国内旅行を除いては移動すべきでなかった人びとから区別するために、必要なのである。入国査証の不要化と入国管理の厳格化という昨今の組み合わせには、深遠で象徴的な意味がある。それを新しい形成途上の階層化の暗喩として考えることもできる。それは今日の階層化の諸要因のなかで、「グローバルな可動性へのアクセス」がもっとも上位にあるという事実を如実に示している。また、それはローカルな現象でありながら、グローバルな次元の特権と剥奪を明らかにしている。ある人びとは、査証のない移動という新しい自由を享受している。ほかの人びとは、査証がないという同じ理由によって、そこに滞在することを許されないでいる。
現実に、あるいは夢のなかで、すべての人びとは今日では移動者なのであろう。だが、自由の程度において頂上にいる人びとと、底辺にいる人びとのそれぞれの経験のあいだには、橋を架けることが難しい底知れない溝が生まれつつある。「ノマド」という流行語は、ポストモダン時代の同時代的なものすべてに見境なく適用されているが、これはひどく誤解を招きがちである。なぜなら、この流行語は、2つのタイプの経験を分離し、両者の類似性をあくまで形式的で表面的なものにしている深遠な差異を、塗り固めてごまかしてしまうためである。
Bauman, Zygmunt, 1998, Globalization : the human consequences, New York : Columbia University Press. (澤田眞治・中井愛子訳,2010,『グローバリゼーション――人間への影響』法政大学出版局.)pp.120-3