「純ジャパ」の卓越化
現代日本において、ノーマリティとしての日本人性資本を十分に蓄積した「マジョリティ日本人」という概念をもっとも直接的に体現しているのは、「純ジャパ」という言葉だろう。この言葉はしばしば「ハーフ」や「キコク(帰国子女)」の対義語として用いられ、「日本に生まれ、日本人の両親をもち、日本人以外の『血統』をもたず、日本以外の場所に長期間住んだことがない日本人」といった意味で用いられる。すなわち、「ハーフ」に対しては「純粋な日本人種」、「キコク」に対しては「純粋な日本民族/日本文化の体現者」といった含意がある。
かつて日本の学校では「帰国子女」という色眼鏡で見られ「日本人らしくない」という否定的な視線にさらされ、日本の学校への同調圧力に直面し、いじめやアイデンティティ・クライシスに悩む生徒も少なくなかった(渋谷 2005)。現在でも、日本の学校文化に(再)適応できずに「日本人らしく」ふるまえないことに悩んだ経験をもつ「キコク」は少なくないだろう。
一方、「ハーフ」と呼ばれる人々も偏見や差別にさらされ、いじめの対象となってきた。今日でもそのような事例は少なくない(下地 2021)。後述するように、現代日本における「ハーフ」への肯定的なイメージは海外(特に欧米)社会での滞在経験や異文化経験、語学力(特に英語力)の高さ、「白人的」とされる容姿などによって構成されているが、すべての「ハーフ」にそのような経験や能力、特徴があるわけではない。その結果「ハーフらしくないハーフ」として無視されたり、否定的なイメージを付与される人々もいる。
ただし少なくとも2020年代の日本では、自分は「純ジャパ」であるという若者は、あまり肯定的な意味でこの言葉を使っていないことも多い。むしろ、「日本で生まれ育ったため日本の社会や文化しか知らず、世間が狭い」「島国根性で排他的」「日本語しか話せない(英語ができない)」「鼻が低い、目が細い、足が短い」といった否定的なニュアンスが込められていることが多い。グローバリズムの規範と英語への過度の依存(木村 2016)、その背景にある「西洋」に対する日本的オリエンタリズムの言説のなかでは、とりわけ欧米からの「キコク」や欧米との「ハーフ」というカテゴリーが「(欧米での)海外経験がある」「英語が話せる」「(欧米の価値観としての)国際感覚を身につけている」「コミュニケーション能力がある」「『日本人離れした(白人的な)』イケてる容姿をしている」といったイメージと結びつけられ、その「西洋らしさ/日本人らしくなさ」が賞賛や羨望の対象になることも少なくない(下地 2022: 13-126, 馬渕 2002: 96-98)。そのとき「純ジャパ」が体現する「日本人らしさ」は、このような「ハーフ」「キコク」への肯定的なイメージの反転としての、否定的なイメージを伴っている。
しかし、たとえ肯定的なイメージに変わったとしても、「キコク」や「ハーフ」が「日本人らしくない」とされ、マジョリティ日本人から有徴化される傾向があることに変わりはない。それゆえ「純ジャパ」に否定的なイメージを抱いていたとしても、自分自身を「純ジャパ」だとみなすマジョリティ日本人は「キコク」や「ハーフ」に対して特権的な立場にいる。それをブルデューの「文化貴族」という概念で説明することができる。文化貴族とは、ある社会において望ましいものと正統化された文化資本を「自然に」受け継いでいるとみなされた人々をいう(ブルデュー 2020)。日本人らしいとみなされることを可能にする文化資本を日本人性資本とすれば、それを十分かつ「自然に」身につけているとされる人こそ「純ジャパ」である。一方、「純ジャパ」だと他者から認めてもらえない、または自認できない「キコク」や「ハーフ」(もちろん、それ以外のマイノリティも含まれる)は、自分の「日本人らしさ」を証明するために日本人性資本をより多く蓄積するように駆り立てられることが多い。その結果「純ジャパ」以外の人々は、誰がより日本人らしいのかをめぐる競争や対立に巻き込まれがちになる。結果として、日本人性資本を比較的多く蓄積した人がより「日本人らしい日本人」であり、より少なく蓄積した人は「条件付きの/日本人らしくない/ほんとうは日本人ではない日本人」として周縁化されていく。その一方で、こうした日本人性資本の獲得競争に参加しないでいられるということ自体が、日本人性を「自然に」もっているとされる文化貴族としての「純ジャパ」の特権である。こうして「純ジャパ」ではない人々が日本人性資本を獲得するために努力し競争をすればするほど、そのようなことをしなくてもよい「純ジャパ」は彼・彼女らに対して卓越化されていくのである。やがて日本社会という場で、「純ジャパ」として自他ともに認め「ほんとうの日本人であること」を疑われる可能性がない人々、すなわちマジョリティ日本人と、努力して「日本人らしさ」を身につけなければ「ほんとうの日本人であること」を疑われてしまいかねない人々の序列が強化されていく。
統治的帰属と「口頭試問」
この卓越化により、自他ともに「純ジャパ」であるとされるマジョリティ日本人は日本社会における「統治的帰属」の感覚を強めていく。統治的帰属とは、自分の帰属している社会のあり方を決める主体性をもっているのは自分たち自身に他ならない、というマジョリティが抱く感覚のことである(ハージ 2003)。マイノリティの立場に置かれた人々はその社会に対する帰属意識をもつことはできても、統治的帰属の感覚をもつことはできない(もちろん前章で述べたように、その人のマジョリティ/マイノリティ性はその人が置かれた関係性によって変化する)。「純ジャパ」のもつ統治的帰属感は、「キコク」「ハーフ」、あるいは「外国にルーツをもつ(日本生まれ・育ちの)人々」「日本国籍をもつ(帰化した)外国出身者」などが、「どの程度、どのように、ふつうの日本人らしいのか/らしくないのか」を「評価」することが自分にはできるのだという感覚として表れる。それは「自分たちこそがふつうだ」、すなわち他者の日本人らしさを評価する基準となる日本人性のノーマリティを正統な資格とともに保持しているのは自分たちだ。という感覚である。だから「純ジャパ」とされる人々はそうではない人々を礼賛することもあるし、彼・彼女らを「日本人らしくない/日本人ではない」と排斥することもある。ここで問題なのは礼賛するか排斥するかではなく、礼賛するか排斥するかを判定する権力を自分たちがもつのが自明の前提になっていることである。そこでは、自分たちこそが「ふつうである」というノーマリティの感覚が、だからこそ自分たちは他者を評価できるという「テストする権力」の感覚に転換されている。
ここでいう「テスト」とは、文字通りの意味での試験や面接に限定されない。下地が論じるように、人々は既知の集団カテゴリーにあてはめて理解することができない他者と出会ったとき「あなたは何者」としばしば「質問」する。「日本人/外国人」の二分法が支配的な日本社会においては、「日本人」にも「外国人」にもうまくあてはまらない他者(「キコク」「ハーフ」、外国にルーツをもつ人々、帰化した日本国籍者など)に対して「あなたはナニジン?」という質問が喚起されがちになる。そしてこの種の質問はそれだけでは終わらず、その他者の個人的な事柄までさらけ出させる「詮索/尋問」に至ることも多い(下地 2018: 273-280)。このような質問は、質問する側に悪気がなかったとしても次章で論じる「マイクロアグレッション」をしばしばもたらす。
もし質問する側に「悪気がない」のだとしたら、なぜ通常であれば相手に対して失礼であろうとためらうはずのプライベートなことの詮索/尋問までしてしまうのか。それは詮索/尋問する側が、自分には詮索/尋問する権利があるとしばしば無意識のうちに思い込んでいるからである。つまりこのような質問がなされるとき、そこは面接官が受験者に対して好きなことを根掘り葉掘り尋ねる「口頭試問」の場となっている。そして「純ジャパ」は、その日本人としてのノーマリティの感覚ゆえに、そのような場面で自分自身が面接官の立場に立つことを当然だと考えてしまう。その結果、相手が「ふつうの日本人かどうか」を判定するために、ふつうであれば相手に失礼だと思って言わないようなことまで詮索/質問してしまうのだ。自分が他者を「口頭試問」する側に立つことを自明視するこの感覚が、私のいう「テストする権力」である。
「純ジャパ」すなわちマジョリティ日本人の「テストする権力」の感覚を根拠づけているのが、彼・彼女たちが日本人論言説に影響されて内在化した、日本人性に関する固定観念である。マジョリティ日本人は「日本人らしくない」他者と出会ったとき、この固定観念を意識的・無意識的に参照しながら相手がどの程度「日本人らしい/らしくない」か、あるいは「日本人である/日本人ではない」かをテストする。下地が調査した「ハーフ」の人々は、家族・親族関係や学校において行われる日々の「口頭試問」において「日本人らしくない」と判定されることで葛藤やいじめを経験する。アルバイトや就職採用のための文字通りの面接の場で「日本人らしくない」外見や名前によって差別される。ストリートにおいては、見知らぬ通行人から「日本人らしくない」自分の顔をじろじろと「品定め」する視線にさいなまれる。そして「日本人らしくない」容姿をしているという、ただそれだけの理由で警察官に呼び止められ、「職務質問」を受けることになる(前掲書: 361-390)。
「ハーフ」や帰化した元外国籍者、あるいは日本国籍を離脱した日本出身者などは、日本の国益に貢献したり、日本人のプライドを満足させた場合には「日本人」としてカテゴリー化され、メディアなどでしばしば称賛の対象となる。しかし彼・彼女らが犯罪に関わったり「品格のない」ふるまいをしたとみなされた場合は「日本人らしくない」人々として非難の対象になりがちである(前掲書: 226-228)。その意味で、たとえ称賛の対象となっていたとしても、彼・彼女らはいつでも「日本人ではない」とみなされる可能性のある「名誉日本人」として認められているに過ぎない。むしろ、文化貴族として卓越化された「純ジャパ」による「テスト」に合格しなければ「日本人」だと認めてもらえない「二級日本人」として、彼・彼女たちは扱われている。一方、語学力(英語力)や国際感覚を身につけた「グローバルな日本人」として理想化される「キコク」に関しても、「日本人らしさ」を判断基準とした「純ジャパ」による「テストする権力」は発動している。「キコク」とともに、やはり「グローバル人材」として期待されるようになった外国人留学生が日本企業に就職する際、企業が実際に彼・彼女らに期待するのは多くの場合「ブリッジ人材」としての役割だといわれる。つまり、日本語での業務遂行能力と日本の企業文化に順応することがまず求められ、そのうえで語学力や異文化理解力などを活かして海外の取引先や顧客との橋渡し役を担うことが期待されている(上林 2017)。このような期待は、ある程度まで「キコク」にも該当するだろう。つまり「キコク」や留学生が「グローバル人材」として認められるためには、その前提として「日本人らしさ」が求められており、それが欠如・不足している場合にはしばしば否定的な評価を受けることになる。
塩原良和,2025,『共生の思考法――異なる現実が重なりあうところから』明石書店.pp.115-121