認識的不正義(塩原 2025)

 外国人を「偽装」とみなす主張自体は近年出現したものではなく、たとえば「偽装難民問題」は、インドシナ難民を受け入れていた1970年代から論点化していた(滝澤 2017: 291)。マジョリティがマイノリティをすでに同化した/これから同化可能な存在か、それとも排除すべき同化不可能な存在か判定する「テスト」の実践(第4章参照)の恣意性がより強化されたという意味において、「偽装」というスティグマ化は「不法(illegal)」というスティグマ化とは一線を画している。

 「不法」とは文字通り、法に抵触している状態をいう。それゆえ「不法」と名指しされた人は自分が実際には法に抵触していないことを示して反論することができる。あるいは、その人を「不法」たらしめている法そのものの問題点を指摘することも可能である。それに対して「偽装」とは、合法的な状況にある他者の合法性自体が偽りではないかと疑うことである。この場合、疑われた人が「合法である証拠」を示しても、そのような証拠自体が「偽装」であると疑われてしまう。

 「偽装」を疑われがちな外国人は難民認定申請者だけではない。たとえば「留学」の在留資格で滞在している人々は、「留学生とは名ばかりで、実は出稼ぎ目的で来ているのではないか」と疑われることがある。もちろん、初めからそのような意図で留学ビザを取得した人もいるだろうが、多くの留学生は真面目に学校に通っている。ここで問題なのは、留学生を「偽装」して出稼ぎに来ているのではないかと疑われた外国人が「留学」という在留資格が書かれた「本物の」在留カードを見せても、相手はおそらく納得しないことである。その在留カードが本物だとしても、そもそもあなたは勉強することが目的ではなくお金を稼ぐことが目的でその「本物の」在留カードを取得したのではないかといわれるのが「偽装」を疑われるということだからである。

 学生なのだから勉強するのがあたりまえで、それ以外の目的を優先したら「偽装」といわれても仕方がないのだろうか。私は大学教員なので、ろくに授業に出てこない「日本人」大学生が少なからずいることを知っている。だがそうした日本人が「偽装大学生」だと非難されるところを見たことはない。勉学だけが大学に在籍する目的ではないと私自身は思っているが、仮にそれが「学生の本分」だったとして、それ以外の活動をより重視する学生を「偽装」と呼ぶとすれば、アルバイトに精を出す日本人大学生、体育会やサークル活動に打ち込む日本人大学生、早い時期から授業そっちのけで就活に励む日本人大学生はみな「偽装大学生」であるはずだが、実際にはそのように呼ばれることはない。

 同じように、外国人、とりわけ非先進諸国出身の外国人女性が日本国籍の男性と結婚すると、日本に滞在するためのビザ(在留資格)目当ての「偽装結婚」なのではないかと疑われることがある。その人が日本人配偶者との「本物の」婚姻届を見せても無駄である。そもそも結婚した動機が「不純」だから「ほんとうの夫婦」ではないのだと思われているからだ。前章でも触れたように、国際結婚カップルが「ほんとうの夫婦」かどうかは合法的な婚姻の有無に加えて「愛情があるかどうか」に基づいて判断されがちになる。もちろん、恋愛に基づいて結びつくのが「望ましい夫婦関係」だという「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」は、日本人どうしの婚姻関係にも影響を与えている。だが日本人が相手の収人や財産、安定した生活目当てで愛のない相手と結婚しても、あるいは愛情が冷めてしまった後も婚姻関係を続けていたとしても、それは「偽装結婚」とは呼ばれない。ここにも、同じようなことをしても外国人だけが「偽装」とみなされるというダブルスタンダードが存在する。

 同じようなことをしても外国人のみが「偽装」を疑われるということは、疑われるようなことをしたから疑われるのではなく、そもそもその人が外国人だから疑われている、ということを意味する。つまり、そこには外国人に対する否定的なバイアスが影響している。実際にその集団に、自分は難民だとは思っていないのに難民認定申請している人が比較的多いかどうかは、ここでは問題ではない。自分は難民だと信じて難民認定申請したのに、難民と認められないどころか犯罪者として扱われてしまう人がひとりでもいれば、それは不正義なのである。

 ミランダ・フリッカーは、社会的弱者がマジョリティとの非対称な権力関係のなかで、現実の認識のあり方を構成するプロセスへの参加を不当に妨げられることを「認識的不正義」と呼んだ(フリッカー 2023: 272)。難民認定申請者であるというただそれだけの理由で「偽装」だと疑われ、信用されないという状況は、認識的不正義のひとつである「証言的不正義」、すなわち「聞き手が、偏見のせいで話し手の言葉に与える信用性(credibility)を過度に低くしてしまう」ことだといえる(前掲書: 1-2)。そこにおいて働いている偏見は「難民」という「アイデンティティに対するネガティブな偏見」である(前掲書: 47-48)。この偏見は、人々の内面の深いところから、その人の判断力を規定している(前掲書: 34)。証言的不正義は、その対象となった人々を「十全な人間以下の存在」として貶める(前掲書: 59)。それは人々の主体性を奪い「主体からモノに格下げする」のである(「認識的モノ化」)(前掲書: 172)こうして持続的な証言的不正義を被った人々は力を奪われ、自己形成そのものが阻害される。その結果、証言的不正義はその対象を、付与されたステレオタイプがまさに表現するような人間として社会的に構成する自己成就力をもつことになる(前掲書: 73)。

 前章で紹介したウィシュマさん死亡事件を分析した岸見太一によれば、彼女が入管職員などから適切な処置を受けられずに死に至った過程にも、証言的不正義をはじめとする認識的不正義が作用していた(岸見 2024)。難民認定申請者は「偽装」というバイアスのもとに証言的不正義の状況に置かれ、犯罪者化され、認識的にモノ化(=非-市民化/非-人間化)される。人間として扱う必要がないのだから、前章で述べたような入管収容施設内の人権侵害も黙認される。また2018年以降、難民認定申請した外国人が審査期間中の就労許可を得るのは困難になっており、多くの中請者が就労を禁止された状態にあるとみられる。生活困窮者と認められる仮放免中の申請者のごく一部に対して、政府の予算から保護費が支給されているが、その金額は不十分である(橋本 2024: 192-194)。仮放免期間中も、就労は許可されない。支援もなく就労も許可されなければ難民認定申請者は生きていけない。彼・彼女らの一部が生き延びるために「不法に」就労すれば彼・被女たちの犯罪者性が自己成就的に証明され、あるいは支援に頼り続ければ「怠惰」「福祉依存」といった不道徳性のスティグマが強化されていくという、明らかな不条理が存在する。


塩原良和,2025,『共生の思考法――異なる現実が重なりあうところから』明石書店.pp.211-5