この映画を通して彼女が行ったことは、テクノロジーとしてのカメラの力を最大限に発揮させて、スポーツ競技を行う選手たちの肉体の躍動や精神的緊張などに肉薄し、誰も見たことのない視点からスポーツの美しさを観客に体験させることである。そのために彼女は、30人のカメラマンを含む170人のスタッフに細かな支持を与えてさまざまな新しい撮影方法を工夫し(水中撮影、気球による空中撮影)、さらに撮影されたフィルムの編集にあたってもさまざまな工夫を凝らした(レイ 1995)。(中略)
このようにリーフェンシュタール監督は、競技場をさまざまな工夫によって映画スタジオのような虚構的空間に変えてしまい、スポーツ選手たちが走ったり跳躍したりする姿を迫力あるドラマとして捉えた。そうした迫真の光景は、競技場のスタンドに座って肉眼で見ても決して体験できないような、カメラ独特の美的現実だったといえるだろう(現在のテレビのスポーツ中継で使われる多様な撮影技法を彼女が最初に発明したのだ)。そうやって映像美の空間をつくりだそうとする彼女にとって、現実にそこで生きている選手たちは、いわば芸術のための素材にすぎなかった。それは党大会を記録した『意志の勝利』でも同じである。彼女は、競技場で行進する大勢の人びとの姿を、全体的秩序の規律性と旗が林立してゆらめく美しさとして描き出した。だからそのとき、行進する個々の人びとは行進全体の美しい秩序をっくりだすための部品にすぎない。そこにリーフェンシュタールの美学が、政治的な全体主義的思想に通じるポイントがあったといえるだろう。
そうした彼女の全体主義的思想がもっともはっきり表れているのが、『オリンピア』の冒頭に置かれた幻想的、神話的な場面である。ここでは、まずギリシヤ神殿やギリシャ彫刻の映像が幻想的に映し出され、続けて1人の美しい裸体の男性が現れ、円盤投げや槍投げや砲丸投げを神話的に演じて圧倒的な存在感を示す。その肉体は鈍く光り輝く筋肉質の完璧な美しさをもって観客に迫ってくる。いわば彼は、リーフェンシュタールの考える人間の理想的身体像を提示している。
長谷正人,2016,「社会をつくる映像文化1」長谷正人編『映像文化の社会学』有斐閣,119-36.pp.126-8