簡単な話からはじめよう。喫煙。タバコを吸いたいとき、どういう制約に直面するだろうか。タバコを吸うか吸わないかという意志決定を規制する要因にはどんなものがある?一つの制約は法的なものだ。少なくとも一部の場所では、喫煙を規制する法律がある——一八歳未満の相手にはタバコを売るなと法律に書いてある。二六歳以下の相手には、身分証明書をチェックしないとタバコは売れない。法律は、どこで喫煙が許されるかも規制する——たとえばシカゴのオヘア空港内では喫煙してはいけないし、飛行機やエレべータ内での喫煙も禁止だ。少なくともこの二つの形で、法律は喫煙行動を方向付けようとする。それは喫煙したい個人に対する制約として機能する。
でも、喫煙に対するいちばん強い制約は、法律ではない。アメリカの喫煙者たちは、自分の自由が規制されているのを実感しているだろうけれど、それが法律による規制である場合はほとんどないはずだ。喫煙警察はいないし、喫煙訴訟はまだそれほどない。アメリカの喫煙者たちはむしろ、規範による規制を受けている。規範は、個人の車に乗っているときにはほかの乗客の了解がないと、タバコを吸うなと言う。さらに屋外のピクニックでは、別に了解をとらなくていいという。規範は、レストランではほかの客があなたに対してタバコをやめてくれと言える。というし、食事中は絶対にタバコを吸うな、という。
ヨーロッパの規範はすさまじくちがう。ヨーロッパでは、前提が喫煙者に有利になっている。つまりは喫煙者にとって、規範は自由放任だ。でもアメリカでは、規範はある種の制約になるし、この制約が喫煙行動を規制していると言っていい。
さらに喫煙行動を規制するのは法律と規範だけでもない。市場もまた制約条件だ。タバコの値段は、あなたの喫煙可能性を制約する。値段を変えればこの制約が変わる。品質もそうだ。市場が値段と品質のちがったさまざまなタバコを供給したら、ほしいタバコを選ぶ力も増える。ここでは選択肢を増やせば制約が減るわけだ。
最後に、タバコのテクノロジーとも言うべきもの、あるいはその供給を左右するテクノロジーによって作られる制約がある。健康を気にする人にとっては、フィルタなしのタバコはフィルタつきのタバコよりも大きな制約となる。ニコチン強化タバコは中毒性が強いので、強化していないタバコよりも制約が大きい。無煙タバコは吸える場所が増えるので制約は小さい。においの強いタバコは、吸える場所が限られるから制約が強い。こうしたすべての形で、タバコのあり方が喫煙者の直面する制約に影響を与える。そのあり方、その設計、そのつくられ方——一言で、そのアーキテクチャだ。
したがって、このみすぼらしい点を規制する制約条件は四つある——法、社会の規範、市場、アーキテクチャ。そしてこの点の「規制」はこの四つの制約条件の合計になる。どれか一つでも変えたら、全体の規制が変わる。ある制約条件はほかのものを強化する。あるいはそれが対立することもある。でも完全な見方は、これらをまとめて考えるものだ。
じゃあ四つをこんなふうにまとめて考えよう:

この図では、それぞれの楕円は中心にいるみすぼらしい点に作用している制約条件の一つをあらわしている。それぞれの制約条件は、問題の行動——ここでは喫煙——を行おうとする点に別々のコストを課している。規範からのコストは市場のコストとはちがっていて、それはまた法律や、タバコの(発ガン性)アーキテクチャからくるコストともちがっている。
制約は別個のものだけれど、でもそれぞれ明らかに相互に依存しあっている。それぞれは、ほかのものを支持もできれば打ち消すこともできる。テクノロジーは規範や法律を無意味にしてしまえるし、それを支援することもできる。ある制約条件は、ほかの制約を可能にする。あるいは不可能にしてしまうかもしれない。制約は、機能はちがうけれど、いっしょになって機能する。規範はコミュニティが課すレッテル貼りによって制約する。市場はそれが課す値段を通じて制約する。アーキテクチャは物理的な負担によって規制する。そして法律は、それが脅しに使う処罰を通じて制約する。
それぞれの制約条件を「規制するもの」と呼ぼう。そしてそれぞれを、規制の別個のモードだと考えていい。それぞれのモードは複雑で、それぞれの相互作用は表現するのがむずかしい。このややこしさについては補遺で検討してみた。でもここでは、それぞれがリンクしていて、ある意味ではそれが組み合わさって、すべての領域でこのあわれな点がさらされる規制を作り出すのだ。ということだけを見てもらえればいい。
同じモデルが、サイバー空間におけるふるまいの規制も記述できる。
法律はサイバー空間でのふるまいを規制する。著作権法、名誉毀損法、わいせつ物規制法はすべて、法的権利の侵害に対して事後の処罰をもって脅しつづける。それがどこまで有効か。というのはまた別の問題だ。成功することもあるし、あまりうまくいかないこともある。でも有効性はさておき、法律は、違反した場合にはそれなりの覚悟をしろよ、と脅しつづける。立法者が立法し、検察が脅し、法廷が有罪判決を下す。
規範もサイバー空間のふるまいを規制する。alt.kniuingニュースグループで民主政治のあり方についての議論をはじめたら、フレーミングの嵐にあう。MUDでだれかの正体を「スプーフ」したら、自分が「カエルにされる」かもしれない。メーリングリストでしゃべりすぎたら、共通迷惑フィルタに入れられて自動削除の憂き目にあうだろう。いずれの場合にも、なんらかの共通理解があってそれがふるまいを制約する。これも、コミュニティが課する事後の処罰の脅しを通じたものだ。
市場もサイバー空間のふるまいを規制する。価格体系はアクセスを制約し、価格体系が制約しなければ、アクセスポイントが話し中にばかりなって制約される(AOLは、時間あたり課金から使い放題制に移行したときにこれをかなり強烈に思い知ることになつた)。webの一部はアクセス課金するようになっているし、パソコン通信は昔からそうだ。広告業者は人気あるサイトに報酬を出す。パソコン通信は、人のあまりこないフォーラムを廃止する。これらのふるまいはすべて市場の制約と市場機会の関数だ。つまりそれはすべて市場による規制だ。
そして最後に、アーキテクチャに相当するものがサイバー空間でのふるまいを規制する——それがコードだ。サイバー空間の現状を決めるソフトウェアとハードウェアが、あなたのふるまいに対する制約を構成する。この制約の中身はいろいろだけれど、それはサイバー空間へのアクセスの条件として体験される。一部の場所では(AOLのようなパソコン通信)、アクセス前にパスワードの入力が必要だ。ほかのところでは、身元が確認されなくても接続できる。一部の場所では、あなたの行うやりとりは、そのやりとり(「マウスのフン」)をあなたに結びつける痕跡を残す。ほかのところでは、そういう結びつきはあなたが希望しないと実現しない。一部の場所では、受け手だけに聞こえることばをしゃベれる(暗号を使って)。一部の場所では暗号は使えない。これらの特性を決めるのは、コード、あるいはソフトウェア、あるいはアーキテクチャ、あるいはプロトコルだ。それはコード作者の選んだ特性だ。それはほかのふるまいを可能にしたり、不可能にしたりすることで、ふるまいを制約する。コードにはある価値観が埋め込まれているか。ある価値観を不可能にする。この意味で、これもまた規制だ。実空間のアーキテクチャが規制なのと同じように。
実空間での場合と同じように、これらの四つのモードがサイバー空間を規制する。同じバランスが存在する。ウイリアム、ミッチェルが述べているとおりだ(ただしかれは市場の制約を見落としているけれど)。
アーキテクチャ、法、習慣は、(実空間で)成立したなんらかのバランスを維持表現している。サイバー空間コミュニティを作って住まうようになるにつれて、似たような取引を行って維持しなくてはならないだろう——でもそれは建築的な配置よりはむしろ、ソフトウェアの構造や電子アクセスコントロールに内包されたものになるだろう。
法、規範、市場、アーキテクチャは相互に働きあって、「ネティズン」が知る環境をつくる。コード作者は、イーサン・カッシュが言うように「建築家・アーキテクト」だ。でも、こうしたモードの間のバランスを「作って維持する」にはどうすればいいだろうか。構成を変えるためのツールとしてはどんなものがあるだろうか。実空間の価値観のブレンドを、どうすればサイバー空間に持ってこられるだろう。そしてそのブレンドを変えたければ、どう変えればいいだろうか。
Lessig, Lawrence, 1999, Code and other laws of cyberspace, New York: Basic Books.(山形浩生・柏木亮二訳,2001,『Code——インターネットの合法・違法・プライバシー』翔泳社.).pp.156-61