後期近代のポストモダン社会は、産業主義と資本主義とが進展する中で、リスク社会化しています。リスク社会とは、ウルリッヒ・ベックが提言した概念で、「高度に細分化された分業体制のなかで、核戦争や環境破壊の脅威といった事柄から、日常生活で日々格闘しなければならないリスクまで、人びとが絶えずリスクに直面する社会」を指しています(ベック 1998)。リスク社会の中では、人びとは「古い秩序の縛りや社会ネットワークから自由になった代わりに、日々の生活のあらゆる場面に影響を与える新たなリスクを個人的に解決していくことを求められ」ることになります(ファーロング他2OO9-14—19)。近代以前の集団性というものが失われる中で、人びとは自分の人生経歴を再帰的に構築し続けることを強いられるのです。そして、「『リスク社会』に生きるということは、肯定的にせよ否定的にせよ、行為の拓かれた可能性に対して計算的な態度を持って生きるということ」(ギデンズ2005:31)なのです。これはどういうことかというと、自分の行為がどのような結果を生むかということを常に考えながら行為し、そしてその結果を見ながら自己モニタリングを通じて行動を更新していくことを求められるということです。
現代では、教育や雇用などのあらゆる面において、それぞれの人の経験もライフスタイルも個人化してきたため、わたしたちはこのリスク社会の中でどのような選択をしていくのかということについて自分自身で選択し、そして選択の結果も自分1人で引き受けることが求められるようになっています。
常に再帰的に自己モニタリングをしていくことが求められるポストモダンのリスク社会においては、もう確固としたアイデンティティを維持することは困難で、人びとは常にアイデンティティを再帰的に構成し直し続けなければならなくなっているのです。この状況についてアンソニー・ギデンズは、以下のように述べています。ポスト伝統的な秩序においては、自己は再帰的なプロジェクトとなるのだ。個人の生活の変遷はつねに心的な再組織化、伝統的文化においてしばしば通過儀礼というかたちで儀礼化されたものを要求する。しかし伝統的文化では、物事は集合体のレベルでは世代が代わっても多かれ少なかれ同じであり続けたため、変化したアイデンティティが——青年期から成年期への変化のような——はっきりと確認された。対照的にモダニティという環境では、変容する自己は個人的変化と社会的変化とを結びつける再帰的な過程の一部分として模索され構築される(ギデンズ 2005:36)
つまり、伝統的な社会においては、子どもや若者から大人になっていく際に通過儀礼としてみんなが同じような経験をして、その通過儀礼を経ることによって1人前だと承認されるような道筋が存在していました。ですから「大人になっていくとはどういうことなのか」ということがある程度見えていたわけです。
しかし、今は大人になっていくとはどういうことかについて、社会から具体的に提示されるものが少なくなっているため、大人らしい生き方や、より良い生き方、より望ましい生き方がどういうものなのか、自分自身で考え、自分自身でいわば通過儀礼のようなものを作り出していくことが求められるようになっているということです。
阿比留久美,2022,『孤独と居場所の社会学——なんでもない”わたし”で生きるには』大和書房.pp.49-51