ゴフマンは、日常生活を人々の上演する演劇としてとらえた。そうすることで、人々が織りなす秩序の様相を描こうとした。そのようなゴフマンのドラマトゥルギーにおける大きな特徴の一つは、人々の日常生活におけるパフォーマンスの考察にある。演劇をちょっと思い浮かべてみてほしい。演劇の登場人物は、やることなすことやたら大げさである。必要以上(?)に驚いてみたり、派手に転んでみたりする。たしかに「パフォーマンス」という言葉には「それはパフォーマンスにすぎない」云々というような言い方がある。しかし、ゴフマンのパフォーマンスは、必ずしもこのような「中身のない」行為のことを言っているわけではない。ゴフマンのパフォーマンスは、ある場面である人が別の人に影響を与えるあらゆる行為のことを指している。演劇におけるパフォーマンスの視点は、われわれの日常生活におけるさまざまな行為が他者に及ぼしている影響について気づかせてくれるのである。さらに人々のさまざまな行為をパフォーマンスとしてとらえることで、それを見ている人々、つまりオーディエンスがいて初めて成立することに気つくことができる。店員たちは、チームになって商品を勧めるパフォーマーであり、お客たちはそれを見聞きして商品や店員の言うことのもっともらしさを判断するオーティエンスである。

 そんなパフォーマンスは何のためにおこなわれるのか。もちろん、自分の得になるような望ましい印象を伝えるためにおこなわれるともいえる。また、ゴフマンの「儀礼」論によく見られるように、「他者を保護するために」相手を気遣っておこなうこともある。それに加えてゴフマンのドラマトゥルギー論のなかで重要なのは、ある舞台、つまり状況の定義や場面を維持するという側面である。劇場では、オーディエンス、つまり観客は、その舞台で上演されている事柄が、どのような場面を設定した上で展開されているのかを、大体において理解しながら見ている。今の場面は主人公の部屋の中、公園、学校だ。など。ではどうして人々はそのような場面設定を理解することができるのだろうか。ゴフマンの言葉で言うと、「外面(front)」つまり「舞台装置」と「外見」と「態度」の様子から判断しているからである。要は外面とは、制度となっている紋切り型の期待のパターンである。これをデュルケム流に言うと、一種の「集合表象」となるもので、自立的な一個の事実となるものである。そしてこれらの「舞台装置」と「外見」と「態度」は整合性が期待される。たとえば、1人の大人を前にして、机を並べて子供たちが座っていれば、そこは授業中の教室であると理解できる。それはあるパターンと比べてみて、「もっともらしい」印象を伝えているからであり、そうして「授業中の教室」としての舞台は維持されていると考えられるのだ。これがもしも、1人の子供を前にして、机の上で(ー)大人たちが逆立ちをしていたら、これはいったい何の場面なのか分からない。これらの判断、さらに舞台の維持の仕方は、劇場でなくても日常生活においても同様である。たとえば販売業においては、ディスプレイを整えて店の雰囲気を作り、制服などきちんとした服装をし、顧客には丁重に接する。そして自分たちが導入した状況の定義、たとえば品質最高、サービス満点—、という定義を、そのままオーディエンスの顧客に受け入れてもらえるように、舞台の維持に努めるのである。

 しかし、そのような舞台の維持は、失敗することもよくある。パフォーマンスによって見る人が抱いた印象というものは、「繊細な壊れ物」、つまり、ちょっとした不運な出来事で台無しになりかねないものなのだ。つまらないギャグを言って、場がシラけたり(寒!)、「この商品には……に欠陥があるよ」などと、隠していたはずのことを誰かがバラしてしまって、あたふたしてしまったりするのはほんの一例である。かくして、「舞台装置」と「外見」と「態度」の整合性はくずれるのである。


西川知亨,2003,「ゴフマンの『ドラマトゥルギー論』」中野正大・宝月誠編『シカゴ学派の社会学』世界思想社,306–314.(pp.308-10)