実際、界をゲームと比較することができます(しかしゲームと異なり、界は考案されてつくられたものではありません。明示化も成文化もされていないような規則、もっと正確な言い方をすれば規則性にしたがって動いています)。それゆえ、界には本質においてプレイヤーどおしの競争の産物であるような臨け金があります。ゲームへの投資、つまりイリューシオillusio(ludusの語源はゲームです)があるのです。プレイヤーたちがだんだん本気になっていき、時には激しく対立し合うのは、プレイヤーたちが共通してゲームにもその賭け金にもひとつの信念=信仰(ドクサ)、ひとつの承認を与えてしまっているため、ゲームや賭け金が問題とされることがないからなんですね(プレイヤーたちは「契約」によるわけではなく、とにかくゲームをプレイしてしまっているのですから、その時点でゲームがプレイに値する、骨折りがいがあるということに同意してしまっているんです)。この共謀collusionが彼らの競争あるいは争いの原理になっています。プレイヤーたちはトランプでいう切り札atoutを使いますが、ゲームによって切り札の力は変化します。カードそれぞれの力がゲームによって変わるように、異なった種類の資本のヒエラルキー(経済資本、社会関係資本、文化資本、象徴資本)も、それぞれの界によって変化します。換言すれば、すべての界で通用する有効なカードがあるものの——基本的な種類の資本がそうです——切り札としての資本の相対的価値はそれぞれの界によって変わり、さらには同じ界の時系列的状態によって変わるのです。そもそもある種類の資本の価値(たとえばギリシャ語の知識とか、積分の知識)はゲームの存在、この切り札たる能力が使用される界の存在に依存しています。ですから、特定の界のなかで武器であると同時に争いの賭け金として効力をもっているものとしての資本、あるいは特定種の資本は、その所持者に対して権力、影響力を行使すること、たんなる「とるに足らない人物」ではなく、ある特定の界に存在することを可能ならしめるものです。経験的研究を行う場合、ある界とは何か、その境界はどこにあるのか、どんな特定種の資本がそこに働いているのか、その効果が発揮される限界はどこにあるのか、といった事柄を決定するのは、同じひとつの作業なのです(資本の概念と界の概念とがいかに密接に結びついているのか、以上の説明からご理解いただけると思います)。
それぞれの時点で、プレイヤーのあいだに力関係の状態が成り立っており、その状態が界の構造を規定しています。たとえてみれば、それぞれのプレイヤーの前には、異なる色のカードの山が置かれており、それぞれのカラーがそのプレイヤーのもつ所与の種類の資本に対応している、といった状態です。プレイヤーのゲームにおける相対的な力、プレイ空間のなかでの位置、そしてゲームのなかでどんな戦略を繰り出すか——それがフランス語でプレイヤーの「手jeu」と呼ばれているものですが、さらにプレイヤーのとる動き、危険なことをするのかそれとも用心深くなるか、ゲームをひっくり返すことを狙うのか、それとも守りに入るのか、こういったことすべては、持っているカードの総数、カードの内訳すなわちそのプレイヤーの資本の総量と構成によって決まってくるのです。2人の個人が、たとえ与えられている資本の総量においては同じだったとしても、1人は多くの経済資本と少量の文化資本をもっている(たとえば民間企業の経営者)のに対して、もう1人はわずかな経済資本と大きな文化資本をもっている(たとえば大学の教師)とすれば、両者は位置においても立場表明においても異なってくるかもしれません。
もっと正確な言い方をすれば、ある「プレイヤー」の戦略、そして彼の「ゲーム」を定めているもののすべては、たんに考察された時点におけるプレイヤーの資本の総量や構成と、それらがプレイヤーに保証しているゲームのチャンス(ホイヘンス〔1629-1695。オランダの科学者。力学、光学、天文学、数学の多岐にわたる業績があり、機械論的世界観を数学的自然学によって洗練させた〕は客観的確率を指示するために、またもludus〔試合・ゲーム〕に由来するlusiones〔遊技・プレイ〕という言葉を使っています)に依存しているだけではなく、この資本の総量と構成の時系列的変化、つまり彼の社会的軌跡と、チャンスの客観的構成に対する引き延ばされた関係のなかで構成された性向(ハビトゥス)にしたがって変化するのです。
とはいえ、それですべてというわけではありません。プレイヤーは、おのれの資本、カードの数を増やしたり守ったりするためにゲームすることができます。それはすなわち、ゲームの暗黙のルールにしたがい、ゲームとその賭け金を再現するための必要条件に従うことによってです。しかしながら同時にプレイヤーは、部分的にであれ全面的にであれ、ゲームを成り立たせているルールを変えようと企てることもできるのです。たとえば、異なるカードそれぞれの価値、さまざまな種類の資本の変換率を変えようとし、ライバルたちの力の源泉である資本形態(たとえば経済資本)の信用を落とす戦略に訴えることができます。それによって、自らが好んで所有している特定種の資本(たとえば司法資本)の価値を高めることができるわけです。権力の界の内部で繰り広げられる数多くの争いはこのタイプのものであり、とりわけ国家に対する権力を奪い取ること、国家があらゆるゲームに対して力を行使し、それらのゲームを司るルールに対して力を行使することを可能としている経済的資源や政治的資源に対する権力を奪い取ることを狙った争いはそうです。
Bourdieu, Pierre and Loïc J. D. Wacquant, 1992, Réponses: Pourune Anthropologie Réflexive, Paris: Édition du Seuil. (水島和則訳,2007,『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待——ブルデュー、社会学を語る』藤原書店.)pp.132-4