私は学者流の定義というものがあまり好きじゃありませんので、概念の用法について後回りするところから始めさせてください。ここで『社会学者のメチエ』(Bourdieu, Chamboredon and Passeron 1973)を引き合いに出すことができるでしょうね。これはやや教科書めいた本ですが、それでも数多くの理論的かつ方法論的な原理を含んでいます。私は時おり理論が欠けている、簡潔すぎると非難されるのですが、それらの空白や不足の多くは、自覚的に拒否したもの、ならびにじゅうぶんに考えた末にあえてそうしたものであるということを、それらの原理から理解していただけるでしょう。たとえば、開かれた概念を使うということは、実証主義を断ち切るやり方なのです。ただ、こういう言い方はすでに使い古されていますね。もっと正確にいえば、開かれた概念というものは、概念には体系的定義以外にいかなる定義もないこと、概念は体系的な仕方で経験的に活用されるように構想されるということをたえず思い起こさせておくやり方なのです。ハビトゥス・界、資本のような概念は、孤立した状態ではなく、それらがっくりあげる理論体系の内部でのみ定義できるのです。
同じ理由から、アメリカ合州国では「なぜ私が“中範囲の理論”を提出しないのか」という質問をよく受けることがあります。私の思うところ中範囲の理論というものは、何よりも実証主義的期待を満たそうとするひとつのやり方にすぎないと思います。すでに古びたベレルソンとシュタイナー(Berelson and Sfeiner 1964)の本のように、社会科学で確立された断片的命題を集めるようなやり方です。デュエムが物理学に関してずいぶん以前に示し、その後クワインがそのアイディアを展開させたように、科学が認めるのは法則の体系だけです。そして概念についていえることは関係についてもあてはまります。関係も諸関係の体系のなかでのみ意味を獲得するのです。同じように、私がたとえば多変量の回帰分析よりも対応分析をはるかに多く使っているのも、対応分析がデータ分析の関係論的技法であり、その思想が私の眼には社会的世界の現実と正確に照応しているようにみえるからなのです。対応分析は関係という見地から「思考する」技術で、私が界の概念によっておこなおうとしているのはまさにそのことなのです。
界という観点から考えるということは、関係論的心考える(1986c, 1982a: 41-42)ということです。関係論的(狭い意味で「構造主義的」というよりも)な思考法は、カッシーラーが『実体概念と関数概念』で示したように現代科学のきわだった特徴となっていて、ロシア・フォルマリスムのティニアノフ・社会心理学者のクルト・レヴィン・ノルベルト・エリアスそしてサピアやヤコブソンからデュメジルとレヴィ=ストロースにいたる人類学、言語学と歴史学のパイオニアたちのように、一見すると異なる科学的企ての背後にこの思考法があることを示せるでしょう(クルト・レヴィンも私と同じく、社会的世界についての思考に自然に浸透してくるアリストテレス流の実体主義を克服するためにカッシーラーの名をはっきり挙げています)。へーゲルの有名な言葉をもじって、爽任するものは関係であるといってもいいでしょうね。社会的世界のなかに存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように「個人の意識や意志からは独立して」存在する客観的諸関係なのです。
分析的観点からすれば、界は位置の間の客観的諸関係のネットワーク・あるいは布置構造として定義できます。それらの位置は、その存在によって、またその位置が位置を占める者、行為者もしくは機関に対して押しつけられる決定作用によって、そしてまたさまざまな種類の権力(もしくは資本)の分布構造においてその位置が現に作用するか潜在している状況(situs)によって、さらにはほかの位置との客観的な関係(支配、従属、同型性など)によって客観的に定義されます。それらの権力を握っているということは、界のなかで賭け金になっている特殊な利潤を手に入れるということです。高度に差異化〔分化〕した社会では、社会というコスモスはいくつかの相対的に自律した社会的ミクロコスモスから成り立っています。そのミクロコスモスは客観的諸関係からなる空間であって、他の界を統御しているメカニズムや必然性には還元されない、特殊なメカニズムや必然性が存在する場所です。たとえば芸術界、宗教界もしくは経済界はすべて特殊なメカニズムによって動いています。経済界は歴史的に、「ビジネスはビジネスだ」といわれるような世界、家族・友人関係や愛情関係などの魅力的な人間関係が原則的に排除されるような世界として出現したのです。反対に芸術界は、物質的利潤の法則を否定したり転倒したりすることによって成立しました(1971f)。
Bourdieu, Pierre and Loïc J. D. Wacquant, 1992, Réponses: Pourune Anthropologie Réflexive, Paris: Édition du Seuil. (水島和則訳,2007,『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待——ブルデュー、社会学を語る』藤原書店.)pp.129-32