界の境界という問題はつねに界それ自体のなかで立てられており、したがってア・プリオリに答えることはできません。ある界の参入者たち、たとえば民間企業、オート・クチュールのデザイナー、あるいは小説家たちは、競争を減らそうとしてもっとも身近なライバルたちから自分を差異化しており、界の特定の下位領域を独占しようとしています(この言い方には目的論的「バイアス」がかかっているので訂正しておくべきでしょうね。私が区別化〔卓越化〕の追求を文化活動の基礎にしていると解釈する人たちは、私に目的論的バイアスがあるというのです。またしても本のタイトル〔『ディスタンクシオン』のこと〕が悪い効果を生みだしたわけです。〔しかしながら〕違いを追求した結果ではないのに、違いを生み出すということがありうるのです。たとえばフローベールが思い浮かびますが、彼にとってはある界に存在しようとすることがそのまま事実として差をつける、違ったものになる、差異を肯定することになってしまうのです。そうした人々は、多くの場合そこにいるべきではないような特性、本来なら界の入り口で排除されてしかるべき特性を持っているからです。ですが、この点についてはこの辺でやめておきましょう)。界にすでに参入している者たちは、入場料を上げたりメンバーシップの基準を押しつけたりして、現在の参入者や潜在的な参入者の一部分を界から排除しようと努めます。われわれが自分たちの考える界の根本法則に刻印された要求にしたがいながら、XやYは社会学者じゃないとか、本物の社会学者じゃないといったりする場合にやっているのはまさにそういうことです。能力〔権限〕や所属のあれこれの基準を押しつけたり認めさせたりする努力は、程度の差はあれ、情勢次第で成功を収めることがあります。したがって界の境界は、経験的研究によってのみ決定できるのです。界はっねに暗黙のものにせよ制度化されているものにせよ「参入障壁」をもっていますが、その境界が法的境界(たとえば人数制限をともなう)の形態をとることはごく稀です。同語反復になっているようにみえるかもしれませんが、ある界をその内部で界の効果が発揮される空間と考えることができるといえるでしょう。したがってこの空間を横切る対象に生じることは何であれ、その対象に本来そなわっている特性だけからでは完全には説明できません。界の境界は界の効果が終わる点に位置しています。したがってさまざまな手段を使いながら、これら統計的に検出できる効果がそれぞれの場合にどの点で弱まったり消えたりするのかを測定しなければなりません。経験的な研究のなかでは、ある界の構成を独断的におこなうことなどありえません。たとえばアメリカの州にせよフランスの地方にせよ、そのなかでの文化団体の全体(聖歌隊、劇団、読書団体など)がひとつの界をなしているかといえば、私にはかなり疑わしく思えます。対照的にジェローム・カラベル Jerome Karabel(1984)の研究が示唆するように、アメリカの主な大学は大学間の(物的あるいは象徴的)関係の構造がそれぞれの大学に効果をおよぼしているという点で、客観的な関係によって結びついています。同様のことは新聞についてもいえます。マイケル・シャドソン Michael Schudson(1978)が示したように、ジャーナリズムにおける「客観性」という近代的観念が出現したのがなぜかは、タブロイド版新聞に見られるたんなる「実話=噂」から「ニュース」を区別する基準、責任遂行の基準とかかわる「客観性」の観念が出現したことを見ないかぎり理解できないのです。大学それぞれについて研究することによってのみ、どのように大学の界が具体的に成立したのか、その界はどこで終わるのか、誰がそこに含まれ、誰が含まれないのか、そもそも界が形成されているのか否かを評価することができるのです。
Bourdieu, Pierre and Loïc J. D. Wacquant, 1992, Réponses: Pourune Anthropologie Réflexive, Paris: Édition du Seuil. (水島和則訳,2007,『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待——ブルデュー、社会学を語る』藤原書店.)pp.135-6