ハビトゥスという概念は、著名なフランスの社会学者ピエール・ブルデューの著作に結びつけられることが多い。この概念はアリストテレスが用い、著述家たちが後の時代に断続的に用いてきた哲学の術語である。例えばヘーゲル、フッサール、ヴェーバー、デュルケムらがこの概念を用いた。エトムント・フッサールはその術語を現象学的に読み替え、ノルベルト・エリアスは社会に埋め込まれた行為者の心理を強調するために用いた。マルセル・モースは身体的慣習に焦点を当てたが、ブルデューはこうした議論を総合的に組み合わせながらハビトゥス概念を発展させたとみるのが一番わかりやすいだろう。ブルデューがこの概念を用いるようになったのは、社会構造と行為の間での、また構造人類学と実存主義の間での、彼の苦闘から抜け出すための一つの手段としてであった。
ブルデューのハビトゥスは、社会生活の分析にとってきわめて重要な概念であるため、貧困やアンダークラスからメディアや政治の研究まで、さらには芸術の消費に関する研究にいたるまで、社会学のほとんどあらゆる領域の主要な経験的研究で用いられている。ブルデューはハビトゥスということばで、人間の心身に埋め込まれているある種の特性を表している。このような特性をブルデューは、「移し替え可能であるとともに持続的である性向(ディスポジション)であり、人々はこれを通して、世界のなかで、知覚し、思考し、味わい、行動し、判断する」と定義している。性向という概念によってブルデューは、人々が特定の文化やサブカルチャー(下位文化)を通じて社会化されることで身につけていく、さまざまな持続的態度やスキル、「ノウハウ」のことを指し示している。これらは、立居ふるまい、話し方・ジェスチャー・服装、マナーの様式から、運動能力や実践的なスキル、さらには特定の共有知識や集合的記憶といったものにまでおよぶ。
ブルデューは、次のような2つの間に緊密なつり合い、あるいは「相同性」があることを強調した。つまり、個人の外の世界にある社会の組織化および動態と、個人のなかに身体化された性向との間に、である。彼はこれを「外在性の内在化」と呼ぶものの帰結であるとみなす。人間は、自らの外にある社会的、物質的環境に関して学ぶ必要のあることを、何年もかけて少しずつ取り込み内面化していくが、それは一定の社会的実践を首尾よく行うためである。この「ノウハウ」——ないしはこれらの性向——はほとんど「第2の自然」となるほどに深く浸透している。性向はさまざまな潜在的資源を与える。この潜在的資源は、ブルデューが「生成スキーム」と呼ぶものの形を取り、状況が求めればいつでも引き出されうる。
ブルデューは『実践理論の素描(Outline of a Theory of Practice)』のなかで、以前にアルジェリアの北東部の山岳地帯にあるカビリア地方で行ったフィールドワークにもとづいて、外の世界と内的なハビトゥスの性向との間にある相同性という考え方を練り上げている。デュルケムとモースに依拠しながら、彼はカビリアの世界観に埋め込まれたさまざまな分類に焦点を当てる。さらに、クロード・レヴィ=ストロースの構造主義に依拠することで、そうした分類を序列と差異の関係のなかに配置させる、さまざまな二項対立を取り出した。しかし彼は、次の2つの間の深い結びつきを強調することで、こうした伝統の持つ客観主義を避けた。つまり、一方における表象やシンボルの次元と、他方における、ハビトゥスという身体化された現象学によって媒介される「社会的実践」との間の、深い結びつきを強調したのである。分類・表象・二項対立は、多様な「生成スキーム」の構成を助けるものして捉えられる。この「生成スキーム」は、カビリア人が日々の生活を送る上で行っている実践の、さまざまな領域と結びついている。ブルデューは、複雑な分類システムと二項対立を、次のような領域におけるさまざまな実践と関連づけながら綿密に記述した。すなわち、農事暦(例えば、雨季(wet season)/乾季(dry season)、寒/暑、満/空)、調理(濡れた(wet)=茹で/乾いた(dry)=焼き、薄味/濃味)、1日の周期と構造(暗/明、内/外)、女性の仕事、生活のサイクル・室内空間、身体の部位といった領域である。こうした対照や対立は、もっとも明白な形では、例えば雨季から乾季への移行といった、集合的な儀礼的実践と結びついており、直接的にはそれは、ルーティンの日常的実践における変化となって現れてくる。例えば、家畜の群れが昼間出かけて帰ってくる時間が変化する、といった具合にである。農事暦のある分類はまた、実践をめぐる時間に関するタブーとも結びついている。そうしたタブーには、例えば刈り込み・機織り・すき返しから、結婚祝いや家の漆喰塗りまで含まれる。
そうしたスキームのほとんどは、自明で暗黙のものとなった生き方や考え方であり、多様であるが関連し合った諸領域における実践を、導いたり方向づけたりする。ハビトゥスは、外部の社会的および自然的な世界と行為者が経験として住まう世界の間をつなぐ、現象学的な媒体として作用する。また、外側の構造は行為者の心身の構造に取り込まれるために、ハビトゥスの概念は行為者の主観的な意志に依拠せずにすむ。行為者の主観的な意志に依拠することは、実存主義やシンボリック相互作用論、エスノメソドロジーに依拠することと関連している。主観的意志に結びつく上記のような議論は、社会構造における過去のさまざまな位置によって課せられる重みと限界を、あまりにも頻繁に等閑視してしまう。「生物学的個人は、社会構造における過去のさまざまな位置を、社会的位置が残した非常に多くの痕跡である性向という形で、いついかなる場でも自らとともに持ち運んでいる」。
1950年代後半から60年代初めにかけてのアルジェリアのカビリア地方の世界は、資本主義と植民地戦争の双方から脅かされていた。しかしながら、当時はまだ、ブルデューが「ドクサ」という概念によって特徴づけ説明するのに十分なほど、伝統的で周期的な生活が残っていた。「ドクサ」とは、外部の社会的および自然的な世界が、性向の水準において、自明で当たり前のもの、問われることのないものとして現れるような状況のことである。例えば、ブルデューが晚年になってから『男性支配』で改めて論じたように、性役割分業を正当化する神話=儀礼的体系は、男性的価値によって完全に支配されている。しかし、このことが個々の行為者の現象学的水準ではっきり説明されることはめったにない。ハビトゥスの潜在的な諸性向は、数多くのさまざまな状況において当てにすることができるという点で、「移し替え可能なもの」である。そうした性向は所与の前提でありながらも、即座の状況に合わせて仕立てあげたり、調整したりしなければならないものである。
近代および後期近代の分化が進んだ社会編成のなかでは、事情は異なる。そこにおいては、次のようなものすべてがドクサの条件を掘り崩す。すなわち、世界の見方がさまざまであるという複数性であり、それは「文化接触」、階級対立やその他さまざまな対立、周期的にやってくる政治的および経済的な危機、分業の組織化をめぐる大規模な変化などと結びついている。かつて暗黙の前提であった多くのことが、今や言説という明示的なレベルで論争される領域という性質を帯びるようになる。支配階級はもとの正統であった状態を再建しようと努めるが、異端者たちからの異議に直面する。異端者とは、オルタナティブな可能性(別のドクサ)を思い描いたり、自明と思われている考え方が恣意的なものであることを暴こうとしたりする、多くの集団のことである。しかしながら、次のことを認識することは大事である。すなわち、ハビトゥスはしばしばドクサ・つまり自明のものというレベルで作動するが、現代社会のアクターは自分たちのハビトゥスの諸側面を、偶然的で、言説の上で反省の対象とし、異議申し立てができる性向として、徐々に経験するようになる可能性が高いということを、である。
非常に多くの社会的役割によって特徴づけられる社会は、ハビトゥスの移し替え可能な性向に頼る際に行為者が必要とするものを複雑にし、厄介なものとするのである。仲介的な生成スキームが現れてくるのは、社会的実践からなる特定の「界(フィールド)」を組織する社会的役割が複数存在しているからである。すなわち、芸術家、作家、ジャーナリスト・公務員、大企業のCEO、軍司令官、有力な政治家、さまざまな技術者、教師などとして、人々はそれぞれの下位世界において社会化されるようになる。このように、ハビトゥスの一部の側面は一般的に移し替え可能であるものの、現代社会の個人は専門化したフィールドに特有の性向も別に有するようになる。人々にはまた、異なるフィールドのあいだを移動する際に、ハビトゥスの異なる側面のあいだを移動するスキルを磨く必要がある。例えば、軍司令官や教師に対して職場で要求される規律のスキルは、そうした社会的フィールドのなかでのさまざまな状況のあいだではある程度置き換え可能だが、家庭や食事会、あるいはかけ離れたフィールドの行為者との社会的相互作用においては場違いなものとなるだろう。
このことの背後にあるのは、行為者にとって有効なものとして活用可能なかである「資本」はハビトゥスのみに依るのではない、というブルデューの主張である。その際活用されるハビトゥスの諸側面は、その実践の界にふさわしいものでなければ、効果的にはならない。これがすなわち、彼の公式「ハビトゥス+界=資本」の意味するところである。資本には、それが示す実際上の力が何であるかによって、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)、文化資本、経済資本など、さまざまな形態がありえる。こうしてブルデューは、『ディスタンクシオン』において、いかにして諸集団が特定のスタイルや嗜好——これにはアートや音楽、家具、休暇の過ごし方、映画などのタイプが含まれる——に対する愛着、すなわち性向を受け継いでいるかを論じながら、文化資本について探究した。そうしたスタイルや嗜好は、社会的ヒエラルキーにおいてそれぞれの集団が占める社会的位置と密接に結びついており、それゆえその社会的位置が、他の諸集団に対する彼らの文化資本の水準を(すなわち関係論的に)決定する。例えば、ヨハン・シュトラウスのワルツや特定の新聞を好むといった性向は、それぞれの行為者が位置している社会的フィールドや環境に応じて、異なった水準の文化資本をそれら行為者に与えることになるだろう。
Stones, Rob, 2006, “Habitus,” in John Scott ed., Sociology: The Key Concepts, London: Routledge.
(磯直樹訳,2021,「ハビトゥス」ジョン・スコット編『キーコンセプト社会学』ミネルヴァ書房,279-84.)pp.279-84