自殺は社会の平均的幸福の減退の現れ(デュルケム『社会分業論)』

 じっさいに、ある社会が他の社会よりも幸福であるとかそうでないとかいわれるばあい、それは平均的幸福について、つまりその社会の全成員が平均して享有する幸福についていっているわけである。成員たちは、同一の物理的社会的環境の作用下におかれているかぎり、似たような生存条件におかれているのだから、そこには必然的にある存在様式が存在し、したがってまた、彼らに共通したある幸福の様式が存在する。そこで、もし、個人的あるいは局部的な原因にもとづく幸福を諸個人の幸福から引きさって、一般的共通的な原因の産物である幸福だけを残しておくとすると、その結果得られた残余こそまさしく平均的幸福とよばれるものを構成する。それゆえに、この平均的幸福とはひとつの抽象的な大きさであって、しかも絶対にひとつだけであり、反対の二方向に同時に変化することができないものである。この大きさは増減はしても、同時に増減はできない。またこの大きさは、社会の平均的類型すなわちケトレーのいわゆる「平均人」と同じ単一性と実在性とをもつ。なぜなら、それはこうした観念的存在が享有すると思われる幸福をあらわすものだからである。したがって、この存在は、同時には、さらに大きくなったり小さくなったりできないものであり、より道徳的になったり不道徳的になったりはできないものであると同様に、同時には、より幸福にもより不幸にもなりえないのである。

 さて、文明民族において自殺の増進をもたらす諸原因は、一般性という確かな特性をもつ。じっさい自殺は、孤立した地点や社会の他の部分を除いて、ある部分だけに生ずるというものではない。いたるところにみられる。地域によっては、その上昇に遅速はあるが、例外なくどの地域にもおこる。農業は、工業よりも自殺の経験は少ないが、そこでも自殺に用意された割当高はたえず増大してゆく。だから、われわれが直面しているこの現象は、某々の地方的、特殊的な事情に結びついたものではない。社会環境の一般的状態に結びついたものである。この一般的状態は、その特殊な環境(地方、職業、宗派など)によってさまざまに屈折されはするものの——この一般的状態の作用がどこでも同じ強度で感じとられないという理由はここにある——、だからといって、そのために一般性という特性が変わるのではない。

 つまりは、自殺が伸びるとその減退が証明されるような幸福こそは、平均的幸福といってよい。上げ潮のような自発的な死が証明するものは、不幸にすぎて生命を永らえるあてもない個人がたくさんいるということ——しかしそのことは他の大多数の人びとがどうであるかを臆測させるものではないIだけではなく、社会の一般的幸福が減少してきていることでもある。したがって、、この幸福は、同時には増減しえないのであるから、どんな仕方にせよ、自殺が増加するときにそれが増加することはありえない。いいかえると、自殺によってあらわれた幸福の減退という欠損の増は、どうにも埋めあわせがきかないのである。自殺のよってたつ諸原因は、自殺という形でそのエネルギーの一部を使い果たしたにすぎない。これらの原因の及ぼす影響は、はるかに広大なのである。これらの原因は、人間に幸福を断ちきって自殺する決意をもたせるほどでないばあいでも、少なくとも、苦痛を上まわる快の正常な超過分を、さまざまの割合で減らす。もちろん、特殊な状況の組合せによって、この原因が幸福の増大を可能にするような仕方で中和するようにはたらきかけるばあいもおこりうるが、このような偶然的・個別的変化は、社会的幸福にはなんの効果ももたらしはしない。いったい、一定の社会で、一般的死亡率が増進したばあいに、そこに公共的健康が衰微してきたという確かな兆候を認めることをためらう統計家がいるだろうか。


Durkheim, E., 1893,De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,2017,『社会分業論』筑摩書房.)pp.407-9