親密性を基礎づける心的なあり方は彼のいい方によれば、「配慮」である。先ほど見たように配慮は、秘密(あるいは自分と他者の距離、異質性への自覚)を前提にしている。そしてこの他者との距離の感覚や異質性への自覚というのは、社会的存在としての人間のあり方が多元化し多様化した近(現)代でこそ可能になった心的感覚だといえる。ジンメルは配慮にもとづく親密性を「自己顕示と自己抑制」の総合というかたちで理解する。つまり自分をさらけ出すことと自分を抑えることのバランスの自覚に立った相互的関係形成が親密性の条件であり、こうした態度は他者との心的距離をあれこれ配慮することができる「現代人」にこそ可能だと考えられているのだ。

親密な夫婦関係がはらむ危機

 こうした点は、「夫婦関係」においていっそう微妙で複雑なあり方をみせる。

 いわゆる「ロマンティック・ラブ」を中心的原理として要求される家族の形成が近代に独自のものであるということは近年の家族社会学においても指摘されている{もっともそのことについての「価値判断」については積極的評価、否定的評価のそれぞれがある)。実はジンメルの家族観はまさに近年のこの家族社会学の見解と一致している。つまり、彼は現(近)代になってはじめて「親密性」を核とする「夫婦関係」が一般的に成立したとみる。そしてその関係がはらむ可能性と困難さについて「秘密」を足がかりに考えている。

 まず「近代的な婚姻の長所」とは何か。それは夫婦のコミュニケーションのあり方について制度による制限から一切自由だということである。

 近代「以前の文化」ではそもそも婚姻はどのようなものであるのだろうか?

 「婚姻は原理的にはけっして性愛的な制度ではなく、たんなる経済的・社会的制度にすぎず、愛の願望の満足はたんに偶然に婚姻と結びついたにすぎず、婚姻は、もちろん例外はあるにしてもたんに個人的な愛着のみからではなく、家の結びつき、労働状態、子孫といった理由から結ばれる。」(ジンメル『社会学』第5章)

 そこでは夫婦の生活内容は「先天的で超個人的な規則」によって、つまり昔ながらの伝統や慣習などによって大きく縛られる。個人的な愛着や親密な心情や性愛的な引き付け合いはむしろ制限され、たとえば家全体を統括する家長と家事全般を司る妻といった、それぞれに与えられた制度的役割的側面が関係の基本を作る。

 一定の制度的役割の担い手として、いわば行為のマニュアルとしての「先天的で超個人的な規則」によって相互の振る舞い方が規定されていれば、人はあえて自分自身の心の働きとしての「配慮」の感覚を研ぎ澄ます必要もそのきっかけも生じない。他者との距離への細やかな「配慮」、つまり知ってよいことと知らない方がよいこととの微妙な判断などは働かせることはできない。現(近)代の「親密な関係」とは、まさにこうした「配虛」という心性を必要としているのである。

 しかしこうした「配慮」という心性が、近代的婚姻においても実はなかなか実現されない固有の理由があるとジンメルは考える。それは何だろうか。

あますところなく溶けあいたいという欲望

 それは近代的な婚姻がもっている次のような「誘惑」、とりわけ「最初の時期〔つまり新婚期〕」に「まったく互いに同化しあいたい」という誘惑に駆られることである。近代的婚姻は、互いの性愛的牽引力(つまり恋愛感情)によって魅きつけられることによって、まず肉体的な一体性を求め、さらに精神的な一体性をも求める。「お互い完全にあますところなく溶けあいたいという誘惑」に駆られがちなのである。

 近代以降の結婚は、家どうしの利害や財産の保持などではなく、原則として当人どうしの愛の感情によって結び付くことによって成立する。つまり肉体的、精神的一体化への欲求が1対の男女を継続的な関係へと結び付ける。そうした傾向はややもすると〈すべてを共有したい〉〈相手のすべてを知りつくしたい〉という〈距離ゼロ〉の関係を求めがちなのだ。

 しかしジンメルによれば、「これはたいていは〔夫婦の〕関係の将来を大いに脅かすだろう」という。つまり関係の「絶対的な統一性」を求めることは、近代的夫婦関係のような親密な関係でさえ(いやむしろ親密な関係であるからこそ)関係の解体の危機を招く恐れがあるということである。

 ここでも彼が強調するのは「秘密」的態度がもつ積極的意義である。「親密な関係」であるからこそ、むしろすべてをさらけ出すのではない「繊細さと自制」が要求されるわけだ。むしろそうした心的態度が時代の要請として一人ひとりに求められるようになったということである。その意味でこうした心的態度は、たんなる個人の心搆えとして語られているのではなく、近代以降という時代に特徴的な親密性という関係性そのものが要求する態度だということなのである。

「秘密」は人間関係に奥行きをもたらす

 さてこれまでみてきたジンメルの「秘密」論から浮き彫りになってくることを最後にもう一度確認しておこう。

 まず、ジンメルの観点からすると、「秘密」とは、直接的には相手に対して故意に情報を隠蔽しておく状態を指すが、もっと広義には私たちに原理やメカニズムがきっちりと見通せないような状態をも意味する。その結果、私たちのコミュニケーションの本質に関わる概念となる。

 意図的に作りだされる隠蔽された状態ばかりではなく、すべてを見通せない状態が無意図的に作り出されるということこそが人間の欲望を駆り立てる。というのは私たちはすでによく見聞きしてしまっているものよりも、未知なるものをもつと知りたいと思い、もつと味わいたいと考える存在だからだ。しかし全く手がかりのない未知なるものよりも、その性質や特徴をある程度かいま見れるようなものにこそ心魅かれる。そこに「秘密」が私たちの「生」に肯定的に作用する理啪がある。それは事物に対する未知性としても現われるだろうが、他者との関係において「秘密」は、人間関係に限りない奥行きをもたらすものとして理解される。

 だから距離がゼロという「融解集团」的な人間関係は、たとえ親密な関係においても理想状態として想定することはできない。というよりも理想状態として想定すること自体が大きな危険をはらんでいる。たとえば私を理解してくれる人はだれもいないといった絶望は、〈私のすべてを受け入れすべてを理解してくれる〉他者を求める過度な期待による場合が多い。むしろ、〈私のすべてを受け入れ、すべてを理解してくれる他者〉なんてどこにもいないことをしっかり自覚して、適度な距離があり、お互いの「秘密」を前提とした人間関係においてこそ互いを慮ったり、想像力を働かせることで〈相互の関係を深く味わう〉ような親密な社会関係の形成が可能になるといった発想の転換が必要なのだ。

 私は、ジンメルの「秘密」論は右のように読み取ることが可能だと考えている。それは他者とのコミュニケーションに関して大きなヒントを与えてくれるものだ。〈ほんとうに信頼できる他者〉とは、お互いのことをすみずみまですべてわかり合ったりすべての考え方が同一化するようなこととは全く次元の違う存在だということ。他者を理解したり、他者を愛したりするためには、人と人との「距離」ということに私たちが鋭敏になる必要があること。また「近代」という時代はそのことを可能にし、さらにそのことを私たちに要求している時代だということ——こうした点についてジンメルの秘密論は、豊かな内容を提示しているのだ。