はじめに、戦前に執筆された〈旧稿〉『支配の社会学』を見てみよう。そこでヴェーバーは、民主制の必然的分裂を指摘している。すなわち、支配=〈ヘルなるもの〉の極小化を目指す「民主制」の潮流は、恣意を排する形式的・合理的なザッハリッヒカイトを要請するのだが、それは、具体的なケースと具体的な人とに志向した実質的公平さ(GerechHgkeit)への要請を伴ったエートスと衝突することになる。しかも、形式主義が誰にとって有益かをめぐって、無産者大衆とブルジョアが対立している。もし「平等」を重視して、法や行政が無産者大衆の求めに応じようとするなら、司法や行政は非形式的なものにならざるをえない。その大衆的な「世論」とは、非合理な感情から生じる「政党指導者や新聞によって演出されまたは操縦された」ものであり、「司法や行政の合理的な運行を妨げる」のだと述べている「支配MWG(1/22-4): 196-197; WuG: 565-566=世良訳: 99-100)。
このように戦前の『支配の社会学』では、一方で形式的に合理的であることへの要求を、他方で具体的な実質的公平性への「エートス」を視野にいれて、民主制におけるそれら相互の対立を抽出してみせる。それに対して、戦後の〈新稿〉である『支配の諸類型』では、両者の対立が官僚制の「精神」の内部にあることを強調するようになったのである。
その〈新稿〉によれば、官僚制の「精神」の第1は、形式主義である。この形式主義は、「個人的(persönlich)な生活チャンスの保証に利害関心をもつすべての人によって要求される」(〈旧稿〉ではブルジョアの利害に結合させられていた)。先に「日々の要求」について見たように、ペルゼーンリッヒな利害関心によってザッハリッヒな官僚制が要求されるという構造が看取される。いずれも、官僚制化の過程が日常の利害のレベルから推し進められていくメカニズムが問われているのである〔支配類型MWG(I/23): 467-468; WuG: 130=世良訳-30-31〕。
しかしこの形式主義は、官僚制の「精神」の第2の傾向たる「被支配者の幸福に奉仕する際に、その行政任務を、実質的・功利主義的な見地からとり扱おうとする官吏の傾向」とのあいだで矛盾を来す(強調はヴェーバー)。もとより実質的見地といっても、その執行は規則の範囲内であり、形式主義から逸脱するわけではない。しかしそれが形式主義とは逆向きのベクトルをもつ「実質的合理性への傾向」(強調はヴェーバー)であることに変わりはない。この実質への傾向は、「第1に掲げた層——自分たちがすでにもっているチャンスの『保証』に利害関心をもつ人びとの層——に属さないような被支配者たちによって、支持される。この点に由来する問題は、『民主制』の理論に属する」のである〔支配類型MWG(I/23): 467-468; WuG: 130=世良訳: 31(強調はヴェーバー)〕。
このように展開された〈新稿〉の記述を〈旧稿〉と比較するなら、さしあたり次の3点が指摘できる。第1に、民主制において必然的に分離し衝突する形式主義と実質合理性との対比が、〈新稿〉ではより鮮明にされた上で、ともに官僚制の「精神」における内的に矛盾する利害対立として把握されていることである。
このような把握の背景に、世界大戦によって官僚制的に構築された生活形態が全世界化したという認識が関わってはいないだろうか。「戦前には地上のすべての官僚制が〔専門化と特殊化の〕全道程をまだ踏破し終えていなかった」のだが〔政治論集MWG(I/15): 463=中村他訳: 361〕、今やそれは現実のものとなった。じっさい〈新稿〉には官僚制の不可欠さについて、大戦中の食糧配給問題を思わせる記述もある。「官僚制的装置が欠如するときは、官吏・職員・労働者が行政手段から分離され、しかも規律と訓練(Disziplin und Geschultheit)が不可欠であるような社会においては、生計手段をまだ所有している人びと(農民)を除いて、他のすべての人びとにとって、近代的な生存可能性(Exiscenzmöglichkeit)が停止してしまう」と〔支配類型MWG(I/23): 464; WuG: 128=世良訳: 28(強調はヴェーバー)。この記述には、官僚制化が規律訓練された近代的職業人の生活の細部にまで浸透してきたという戦中, 戦後の実感が込められているように思われる。
ここであらためて確認しておくと、ヴェーバーの官僚制論は、公的官僚制のみならず、企業や民間組織を含めたあらゆる生活の場面を念頭においている。この点を踏まえるなら、たとえば現代、省庁が民間企業やNPOにその業務を委託したとしても、それは業務の担い手が移行したにすぎず「脱官僚制」とはいえないだろう。むしろ官民連携によって、いっそう精緻な官僚制が築かれていく過程と見ることもできる。官吏や工場労働者が(行政や生産の)手段から「分離」され、その手段を使いこなせるよう高度な「規律・訓練」が必要とされる社会で生き残るには、官僚制的装置は不可欠だとヴェーバーは考えていた(5)。
第2に、〈旧稿〉では民主制と官僚制との関係が考察の軸にされていたが、〈新稿〉では民主制の議論は官僚制の章とは別に独立したものとして検討されることになった。それが、先に触れた「支配とは別種の」(水林報告)と訳しうる、ヘル的存在とは切り離された社会体制の議論、すなわち「カリスマの〈支配とは別種の〉解釈替え」「〈支配とは別種の〉団体行政と代議員行政」など、いわば自己統治たる民主制に関わる〈新稿〉の諸章である。この点はテキスト解釈としても社会理論としても重要な諸問題を含んでいるが、本小論ではテキスト上の差異を指摘するにとどめざるを得ない。水林報告(本書第3章)を道標とした考察が今後の課題である。
第3に、〈旧稿〉で言及されたブルジョアと無産者大衆との対抗関係は、〈新稿〉ではヴェーバー特有のチャンス(可能性)の概念で把握し直され、「生活チャンス」をすでにもっているか否かの視点から再構成されている。このチャンス概念は〈旧稿〉でも用いられ、たとえば法や行政は生活チャンスを均衡化すべきもの——であるがそうしようとすると非形式的になる——などと論じられていたものではある(6)。しかし〈新稿〉ではさらに一歩進めて、〈旧稿〉での階級概念をチャンス概念によって再構成している。この視点は、たとえばブルジョアの女性参政権問題や、あるいは現代の正規雇用された労働者と非正規の労働者との「生活チャンス」の差異など、チャンスをめぐる闘争として、誰のための「平等」かという視点に接続可能なものである。つまり〈新稿〉では、経済的階級対立のみならず、政治や家族など全生活領域におけるチャンスの不均衡が強調されるようになったのである。この点についても、大戦後の普遍的官僚制化の全世界化という認識が関連しているように思われる。
荒川敏彦,2014,「日常を支配する力――ポスト近代化論時代における『近代的生存可能性』の問題」宇都宮京子ほか編『マックス・ヴェーバー研究の現在――資本主義・民主主義・福祉国家の変容の中で:生誕150周年記念論集』晃洋書房,267–282.pp.272-5